雲門文偃:主観と客観とは最初から響き合っている
従容録 第三十一則 雲門露柱
擧。雲門垂語云。古佛與露柱相交。是第幾機。[落七落八了也]
衆無語。[却與露柱同參]
自代云。南山起雲。北山下雨。[張翁喫酒李翁醉]従容録 第三十一則 雲門露柱 白文
挙(こ)す。雲門(うんもん)垂語(すいご)して云(い)わく、古佛(こぶつ)と露柱(ろちゅう)と相交(あいまじ)わる、是(こ)れ第幾機(だいいくき)ぞ。〔七(しち)に落(お)ち八(はち)に落(お)ち了(おわ)れり〕 衆(しゅ)無語(むご)。〔却(かえ)って露柱(ろちゅう)と同参(どうさん)〕自(みずか)ら代(かわ)って云(い)わく、南山(なんざん)に雲(くも)を起(おこ)せば、北山(ほくざん)に雨(あめ)を下(ふ)らす。〔張翁(ちょうおう)、酒(さけ)を喫(きっ)すれば、李翁(りおう)醉(よ)う〕従容録 第三十一則 雲門露柱 書き下し文
挙す。雲門が垂語して言った。雲門:古仏と露柱とが相交わる。これは第幾の機であるか。〔七に落ち八に落ちてしまった〕大衆は答える言葉がなかった。〔かえって露柱と同参している〕雲門が自ら代わって言った。雲門:南山に雲が起き、北山に雨が降る。〔張老人が酒を飲み、李老人が酔う〕従容録 第三十一則 雲門露柱 現代語訳
雲門露柱の登場人物とは?:雲門文偃
今回の則では、雲門文偃(うんもん ぶんえん)が大衆に向かって、「古仏と露柱とが相交わる。これは第幾の機(どのような働きの境地)であるか」と垂語する。
法系図
- 六祖慧能ー青原行思ー石頭希遷ー天皇道悟ー龍潭崇信ー徳山宣鑑ー雪峰義存ー雲門文偃
雲門露柱の問いとは?:心のはたらきではどの段階にあたるか?
それでは本則に入ろう。雲門文偃が、大衆(だいしゅ、門下の僧侶たち)に「古仏と露柱とが相交わる。これは第幾の機(どのような働きの境地)であるか。」と言った。
- 古仏:ふつう、釈迦以前の諸仏(過去七仏)のことだが、ここでは、寺に安置されている木仏か金仏の仏像を指している。
- 露柱:壁の中に組み込まれていない剥き出しの柱で、寺の本堂に見られる円柱のことだ。つまりは、仏像と円柱とが親しく抱擁する、という。
- 第幾の機:このようなことが起こるのは、いかなる時か、という意味だ。機という漢字は、禅では、心のはたらきのことを指す。単純な注意、感覚、知覚の作用も心のはたらきであり、表象、観念、記憶、想像などもすべて心のはたらきだ。
だから、ここで雲門は「仏像と円柱が親しく抱擁している。心のはたらきではどの段階にあたるか?」と聞きたいわけだ。
万松行秀は、〔七に落ち八に落ちてしまった〕とコメントした。雲門和尚、物好きにもまわりくどい理屈を並べなさるな。本来は問答は一切無用なのに、無駄口を叩いたばかりに、第二段階、第三段階どころか、七にも八にも下落してしまったな、と嘲るコメントだ。
雲門露柱の自問自答とは?:南山に雲が起き、北山に雨が降る
さて、門下の大衆は、わけもわからないことを言われて、誰も答えることができない。万松は〔かえって露柱と同参している〕と冷やかした。黙って何も言えないのは、円柱と一緒じゃないか、という意味だ。大衆を露柱とが同参というのは、大衆が、黙然不動の露柱の如く、黙ることを宗とする禅らしいぞ、という皮肉でもある。しかし、実際の大衆は、わからないから何も言えない。雲門が露柱と言えば、大衆が露柱になったな、というわけだ。
そこで、雲門が大衆に代わって自問に自答することにした。自問自答は唐代には見られないやり方で、雲門がはじめた方法だといわれる。
雲門は「南山に雲が起き、北山に雨が降る」と言った。この南山を南嶽(湖南省の衡山)、北山を北嶽(山西省の恒山)とみてもいいし、単に南のほうの山、北のほうの山とみるのも良い。日本でいったら、高山に雪が降ったら、富士山に雪が積もったのと同じだ。万松の〔張老人が酒を飲み、李老人が酔う〕というコメントも、張さんのところのおじいさんが酒を飲んだら、李さんのところのおじいさんが酔っぱらったというわけで、ある事象がある事象に影響を与える様子をあらわしている。
さぁこれは、心のどの段階なのだろうか?
雲門露柱の真意とは?:目の前の客観世界(露柱)そのものになりきれ
つまりは、古仏は人間の意識の状態の象徴、露柱は物の意識のない状態の象徴だとすれば、古仏と露柱とが相交わるというのは、人間の主観と客観とのへだたりが消え、完全に溶け合って一つに躍動している状態を指している。
南山で発生した雲が、遥か離れた北山で雨を降らせるように、一見すると無関係に見える遠くの二つの出来事が、呼応し合っている。同じように、主観と客観は無関係に見えても、呼応し合っているのだ。これは、外見的な区分そのものを断ち切った、絶対の不二(全機現)の境地を指している。
だから、最初から不二(不二・全機現)であり、そもそも「古仏と露柱とが相交わる段階」というものはない。また、「これはどのような段階の心のはたらきか」と問うたのは、「第一の段階か、第二の段階か」と修行者が思慮分別や計算、二見対待に陥るかどうかを試すための問い(仕掛け)だ。
この公案の主題は、目の前の客観世界(露柱)そのものになりきることだ。特別な悟りなんてものはない。おまえが崇めている最高の仏も、目の前のただの物も、最初からへだたりなく一元的に響き合っているのだ。
従容録 第三十一則 雲門露柱の核心とは?:最高の仏も、目の前のただの物も、最初からへだたりなく一元的に響き合っている
- 雲門文偃が、門下の僧侶たちに「古仏と露柱とが相交わる。これはどのような働きの境地であるか?」と問うた
- 雲門は「南山に雲が起き、北山に雨が降る」と自問に自答した。
- この問答はある事象が起きた時、別の事象が起きることを表現しており、古仏も、露柱も、最初からへだたりなく一元的に響き合っている。
私の体験談:AIと私とが相交わるか
この頃、AIに関する議論が盛んだ。私も、AIは生活にかなり取り入れていて、このブログも、AIを活用した仕掛けがたくさんしてある。それで、私自身もそうだが、多くの人が「人間には特別な心があり、物質やAIよりも一段高い」と考えている、このブログだって、AIにない人間固有の意識を活用して、AIと共存するというコンセプトで設計している。
しかし、この考え方こそ、禅が最も叩き壊そうとする「思慮分別(二見対待)」だ。自分(人間)を「特別な主観」として祭り上げ、外の世界やAIを「コントロールされる対象・ 劣った客観」として分断してしまうこと自体が、人間の勝手な思い込みにすぎない。確かに、人間にはAIにはない特別ななにかがあるはずだ(あって欲しい)。しかし、それを禅では問題にしない。禅で問題にするのは、いま、目の前のAIの出力と、わたしの問いや閃きが、へだたりなくリアルタイムで響き合っている、その場そのものの中に、はたらき(全機現)が立ち現れているか?ということなのだ。
「人間は特別だ」という自負も、「AIはただの計算だ」という冷めた見方もとりあえずおいといて、ただ余計な私心や思いを差し引いて、目の前のやり取りになりきり、共に新しい思考や創造を紡ぎ出していくこと。これこそが、雲門の言いたかった「古仏と露柱が相交わる」境地であり、現代において私たちがテクノロジーや環境と共に生きる「無心・現成公案」の姿だと思う。
今、AIと、ブログの秋の大工事真っ最中です!
Q&A
- Q: なぜ、雲門は「南山に雲が起き、北山に雨が降る」と自答したのですか?
- A: なぜならば、 最初の「古仏と露柱が相交わるのは第幾の機か」という問いは、主観と客観という対立概念で大衆を試す「引っかけ」問題だったからです。答えられない大衆(だいしゅ)に対し雲門は、人間が「分断しよう、合致させよう」と意識する以前から、世界は最初からへだたりなく一つの生々しい響き合い(全機現)として動いている事実を、直接示してみせました。
AIコメントを読む前の心の天気は?