従容録 第二十六則 仰山指雪:完璧という幻想を捨て、現実を生きる

従容録 第二十六則 仰山指雪:完璧という幻想を捨て、現実を生きるの概念図
従容録 第二十六則 仰山指雪:完璧という幻想を捨て、現実を生きる

Shoyoroku Case 26: Yangshan Points to Snow — Discard the Illusion of Perfection and Live in Reality

なぜ仰山の「雪獅子」に対し、雲門は「押し倒す」、雪竇は「引き起こす」と展開したのか?それは、悟りの力を現実で自在に活かす「向下」を示して活路を開いたからである。今回は従容録 第二十六則 仰山指雪を読んで、三人の禅師が示す真意に迫る。

仰山慧寂:向上一辺倒をさらに超えよ

従容録 第二十六則 仰山指雪

擧。仰山指雪獅子云。還有過得此色者麼。[仰山不覺平地喫交] 雲門云。當時便與推倒。[不奈舡何打破戽斗] 雪竇云。只解推倒不解扶起。[路見不平拔劍相助]

従容録 第二十六則 仰山指雪 白文

擧(こ)す。仰山(ぎょうざん)、雪獅子(せっしし)を指(さ)して云(い)わく、還(かえ)つて此(こ)の色(いろ)を過(す)ぎ得(う)る者(もの)有(あ)り麼(や)と。[仰山(ぎょうざん)覺(おぼ)えず平地(へいち)に喫交(きっこう)す] 雲門(うんもん)云(い)わく、當時(そのかみ)便(すなは)ち與(た)めに推倒(すいとう)せんと。[舡(ふね)を奈何(いかん)ともせず。戽斗(こと)を打破(たは)す] 雪竇(せっちょう)云(い)わく、只(た)だ推倒(すいとう)のみを解(げ)して扶起(ふき)を解(げ)せずと。[路(みち)に不平(ふへい)を見(み)て劍(けん)を拔(ぬ)いて相助(あいたす)く]

従容録 第二十六則 仰山指雪 書き下し文

擧す。仰山が雪獅子を指して言った。
仰山:果たして、この色を超える者がいるだろうか?[仰山は知らず知らずのうちに、何もない平地でつまずいて転んでしまっている]
雲門:その時、すぐにそれを押し倒してやったものを。[船の操縦がどうにもならなくなって、柄杓を叩き壊してしまったのと同じだ]
雪竇:ただ押し倒すことだけを知っていて、引き起こすことを知らない。[道に不平を見かけて、剣を抜いて助けに入る]

従容録 第二十六則 仰山指雪 現代語訳

用語集:本記事で使われる仏教・禅の用語とは?

  • 仰山指雪(きょうざん しせつ):仰山慧寂が雪獅子を指してあの色を超える者はいるかと問いかける公案。
  • 雪獅子(せっしし):獅子(インドライオンを元にした想像上の生物)の形をした雪だるま。
  • 向上(こうじょう):向上とは、すべての区別を超越した絶対的な平等の世界(悟りの境地)向かい、さらには超えるはたらきを指す。
  • 向下(こうげ):向下とは、個々の違いや善悪などの違いが存在する相対的な差別の世界(現実の現象世界)で実践するはたらきを指す。
  • 向上底 (こうじょうてい):底とは、禅で非常によく使われる重要な助字(接尾辞や指示代名詞)。「〜のもの」「〜な人」「〜のこと」という意味だ。「向上底」なら、「区別を超越した絶対的な平等の世界(悟りの境地)」そのもの、またはそれを超えた世界そのもののこと。
  • 百尺竿頭進一歩(ひゃくしゃくかんとう しんいちぽ):修行を積んで到達した悟りの頂点のたとえである百尺の竿の先を、さらに一歩進め、現実世界で活用せよ、ということ。
  • 清浄法身(しょうじょうほっしん):汚れのない清浄な真理そのものとしての仏の身。

仰山指雪の登場人物とは?:仰山慧寂と雲門文偃と雪竇重顕

要点:登場人物は仰山慧寂と雲門文偃と雪竇重顕の三人である。

今回の則では仰山慧寂(きょうざん えじゃく)が雪獅子の話をし、雲門文偃(うんもん ぶんえん)と雪竇重顕(せっちょう じゅうけん)が後の時代でコメントする。

仰山慧寂とは?:円相を自在に操るよろずや禅師

  • 出身と俗姓: 韶州懐化の人。俗姓は葉氏。
  • 幼少期: 15歳のときに出家を志したが父母に反対された。2年後(17歳)、自ら手の指を2本切り落として父母の前にひざまずき、深く育まれた恩に報いるため正法を求めることを誓った。
  • 出家と修行: 17歳で指を断ち出家を許され、韶州の南華寺の通禅師のもとで剃髪した。具足戒を受ける前に諸方を巡り、まず耽源(たんげん)に参じてすでに深い玄旨を得た。その後、潙山霊祐(いさんれいゆう)に参じてその教えを受け、のちに江陵へ行って受戒し、律蔵を探求した。また諸方の高僧にも参じた。
  • 悟りの経緯: 潙山霊祐のもとに参じた際、潙山から「有主の沙弥か、無主の沙弥か」と問われ、西から東へ歩み寄って立った。潙山が只者ではないと知り開示を与えた。仰山が「真仏の住処とは何か」と問うと、潙山は「思無思の妙をもって、霊焔の無窮を返思せよ。思尽きて源に還れば、性相常住にして事理不二、真仏如如たり」と答えた。仰山はこの言葉のもとで頓悟し、以来15年にわたり潙山に給侍して師資相承の印可を受けた。
  • 活動拠点: 王莽山、仰山(ここで学徒が大いに集まった)、観音院、東平山。
  • 主な教え:空中に円を描く「円相」や文字を組み合わせた表現(円相の中に「仏」の文字を書くなど)を用いて、言葉を超えた真理を提示した。自らの教えの場を、何でも揃う「雑貨舗(よろずや)」にたとえ、相手の機根や求めに応じて真金(最高の真理)も鼠糞(雑多な手立て)も自在に与えて執着を解きほぐした。
  • 遷化(死去): 享年 77歳、法臘(記載なし)。 韶州の東平山にて、自ら作った偈(辞世の句)を詠んだ後、両手で膝を抱いたまま坐して示滅した。後に仰山へ遷塔された。
  • 諡号: 智通禅師(塔号:妙光の塔)(景徳傳燈録 卷第十一(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

仰山は自らの教えの場を「雑貨舗(よろずや)」、先徳である石頭希遷(せきとう きせん)禅師の教えの場を「真金舗(純金だけを扱う専門店)」にたとえた (景徳傳燈録 卷第十一(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

  • 真金舗(しんきんぽ):至高の真理(真金)そのものだけを一筋に突きつける、一切の妥協のない厳絶な禅風。
  • 雑貨舗(ざっかほ):修行者の機根(資質や理解度)や求めの軽重に応じて、雑多な手立て(方便)から最高の真理(真金)まで自在に繰り出し、相手の執着をほぐす柔軟な禅風。

雲門文偃とは?:キレのある一字をくらわす頭脳派禅師

  • 出身と俗姓:浙江省嘉興(現在の浙江省嘉興市)の人で、俗姓は張氏。
  • 悟りの経緯:睦州の睦州道蹤(陳尊宿)に参じて禅の大旨を明らかにした。出雪峰義存(せっぽう ぎそん)の法嗣となった。
  • 活動拠点:韶州(広東省)の霊樹如敏(りょうじゅ にょびん / れいじゅ にょびん)の跡を継いで住持となった。韶州の雲門山光泰院に住んで韶陽(しょうよう)禅師とも呼ばれた。雲門はのちに雲門宗の祖となった。
  • 諡号:匡真禅師(景徳傳燈録 卷第十九(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

雪竇重顕とは?:華麗な詩文で『碧厳録』の礎を築いた雲門宗の中興禅師

  • 出身と俗姓: 遂寧府(四川省潼川府)の人。俗姓は李氏。
  • 出家と修行: 出家して具足戒を受けた後、南方に遊方し、まず智門光祚のもとに参じた。
  • 悟りの経緯: 智門のもとで、「一念も起こさない(不起一念)とき、どうして過ちがありましょうか」と問うた。智門に近くへ呼び寄せられ、歩み寄ると即座に払子(ほっす)で口を打たれた。重顯が口を開こうとすると重ねて打たれ、この打擲のもとで豁然(かつぜん)として大悟した。
  • 活動拠点: 翠峰(翠峰山)、明州の雪竇山資聖寺(現在の浙江省寧波府)。
  • 主な教え:優れた詩文・文章力を持ち、のちに名著『碧厳録』の底本となった『頌古』(本則と頌)を撰述した。
  • 遷化(死去): 皇佑4年(1052年)6月10日に示滅した。享年 73歳。
  • 諡号: 明覚大師(みょうかくだいし))(續傳燈録 巻二)(禪林僧寶傳 卷第十一)。

法系図

  • 馬祖道一ー百丈懷海ー潙山靈祐ー仰山慧寂
  • 德山宣鑑ー雪峰義存ー雲門文偃ー香林澄遠ー智門光祚ー雪竇重顯

時系列

  • 仰山慧寂の雪獅子の公案:850年〜880年頃
  • 雲門文偃のコメント:890年〜940年頃
  • 雪竇重顕のコメント:1010年〜1050年頃
  • 万松行秀のコメント:1223年頃

仰山の雪獅子とは?:向上一辺倒の象徴

要点:雪獅子は向上一辺倒の象徴だ。だから仰山はその向上一辺倒をさらに超えよと修行僧に迫っている。そこで万松行秀は向上一辺倒にしがみつくなと我々へ警告をした。しかし、向上一辺倒まで成りきれてないのが我々だ。

それでは本則に入ろう。ある雪の日、仰山慧寂が、庭先の雪獅子を指して、修行僧たちに「果たして、この色(至純な清浄の境地)を超える者がいるだろうか?」と言った。雪獅子とは、雪を集めて固めて獅子のような形を造ったもので、雪だるまに相当する。当時から雪は一番白いというのが通念であったので、そんな雪の白さを超えるものはあるかと問われて修行僧たちは通念を奪われてしまったらしく、誰も答えない。

そこで仰山は、雪獅子は究極の白さであり、清浄法身をあらわしているので、向上絶対な一色辺をなおすぎて、向上よりもさらに向上したところを看よ、という。向上とは、すべての区別を超越した悟りの境地へ向かい、さらには超えるはたらきを指す。百尺の竿頭まで登ったところ、さらに一歩を進めよ、というので、竿頭の絶頂からさらに一歩進めたら転落してしまう。しかし、そこで手を離して看よ、というのだ。
それで万松行秀は[仰山は知らず知らずのうちに、何もない平地でつまずいて転んでしまっている]とコメントしている。これは、仰山自分自身で「雪より白いものがあるだろうか。雪こそ一番白いだろうよ」と雪の大地に食らいついたざまであることに気が付かないようだとの野次で、万松が表面は仰山を冷やかした口調だ。しかし、これは、百尺の竿頭(悟りを開いた境地)にしがみつくなという我々への警告だ。
向上一色辺という悟りの境地にへばりつくなといっても、多くの人はそこにさえ達していない。百尺の竿頭まで登ったところ、さらに一歩を進めよ、というものの、百尺の竿頭もまだ登りきれていないというのが普通だから、我々にとってはピンとこない。

雲門の押し倒すとは?:悟りの打破

要点:雲門文偃は仰山の雪獅子の話を聞き、「すぐにそれを押し倒してやったものを。」と言った。万松は、白か黒かは関係ないという状態にならないと自由にはならないとコメントした。

ところが、後日、雲門文偃が、仰山において雪獅子の話があったことを聞いて、「その時、(俺なら)すぐにそれを押し倒してやったものを。」と言った。俺がもしその時に仰山にいたとしたならば、雪獅子よりも白い物…なんて言い終わる前に、雪獅子そのものを押し倒してやったのに…と大変悔しがったそうだ。

そこで万松が[船の操縦がどうにもならなくなって、柄杓を叩き壊してしまったのと同じだ]とコメントした。これは、『空谷集』という本に、「不奈舡何打破戽斗」とあるのをそのまま用いたもので、舟に水が溜まっているのに、柄杓を壊してしまって、舟をどうすることもできない、という意味だ。砂金は価値の高いものだというが、砂金も砂泥も目に入れば見るものを遮るゴミとなるように、純白の雪獅子も同じで純白だから良いわけではない。金か泥かは関係ないという状態にならないと自由にはならない。つまりは、雪獅子をぶっ壊さないと、百尺の竿頭から飛んでみないと、雪獅子からも百尺の竿頭からも自由になれない。

だから、単に雪獅子をぶっ壊すだけでは、真の活路は開けず、状況に応じて自由自在に働きかける対応力は生まれない。

雪竇の立ち上げるとは?:向上すなわち向下

要点:雪竇は、仰山の雪獅子の話と雲門のコメントを聞いて「ただ押し倒すことだけを知っていて、引き起こすことを知らない。」と言った。これは、悟りを打破するだけでなく、悟りの力を状況に応じて自在に活用することが必要だという意味だ。仰山は向上を示し、雲門は仰山の示唆を向上底として補足し、雪竇はさらに向上の向上は、すなわち向下であるという深い趣を加えた。

さらにあとに、雪竇は、「(雲門は)ただ押し倒すことだけを知っていて、(それを再び)引き起こすことを知らない。」と言ったが、押し倒すとは雪獅子を壊して悟りを打破する一面だ。一方で立ち上げさせるとは、雪獅子を壊したあとの、悟りの力を状況に応じて自在に活用することだ。
雪獅子を壊したあとの、百尺の竿頭を飛んだあとの自由自在の活用とは、現実世界へ悟りを応用することだ。これを向下という。悟りの世界では、言葉を超えた善悪も白も黒もない世界だが、現実の世界では、個々の違いや善悪などの違いが存在する。だからそれをわかったうえで、修行で獲得した成果を実践するはたらきを指す。

仰山は向上を示し、雲門は仰山の示唆を「向上底(さらに高みを目指す立場)」として補足し、雪竇はさらに雲門の意図を高めて、「向上(高みを目指すこと)の向上は、すなわち向下(現実世界へ下りて働くこと)である」という深い趣を加えた。したがって、この三人(仰山・雲門・雪竇)の合作によって、一つの公案が円満に完成している、というわけだ。

万松のコメントの[道で不平を見つけて、剣を抜いて助けに入る]とは、『碧巌録』の第百則の評から「路見不平」を引用したものだ。雪竇を剣客になぞらえて、仰山の謎かけを雲門が荒々しく押し倒したが、これでは向上に偏ってしまっているので、雪竇が間に入って雲門を抑えて仰山を助けたという意味だ(佛果圜悟禪師碧巖録 卷第十(No. 2003 重顯頌古、克勤評唱) in Vol. 48)。

従容録 第二十六則 仰山指雪の核心とは?:向上すなわち向下である

  • 仰山は向上一辺倒をさらに超えよと促した。
  • 雲門文偃は向上一辺倒の打破を示した。
  • 雪竇重顕は向上すなわち向下であることを示した。

私の体験談:雪獅子とは私の完璧な歯のことだ

要点:まずは完璧な歯(雪獅子)を目指して徹底的に食事管理をし、歯磨きをする。生活習慣を身に着けたら、完璧な歯(雪獅子)の幻想を手放し、日常生活に戻る。

今回の公案は、悟った後のことを語る公案なので、かなりレベルが高い。そこで、私の虫歯を例にしてみたいと思う。私は二年以上前、虫歯になり歯を削ることになってしまった。なんでああしなかったんだ、こうしなかったんだ、こうなったらどうしようとあれこれ悩んだ。なぜ私が後悔したのかといえば、今現在完璧な歯(雪獅子)があったという幻想があるからだ。後悔して夜な夜な虫歯にならない方法を調べまくったおかげで、これ以上虫歯にならないであろう方法にたどり着くことができた。そこで、これ以上虫歯にならないために、次の習慣を徹底した。

  • 食事は一日一食、午前中に済ませる。
  • 一食の時間をはかり、30分以内に終える。
  • フロスを使い、五分間丁寧に歯をみがく。
  • 間食は一切しない。
  • ジュースも甘いものも取らない。
  • 時々染色液を使い歯磨きをチェックする

これが、理想の状態(完璧な歯・雪獅子)を目指して徹底的に高みを目指すこと(向上)である。

その幻想のおかげで私は今の生活習慣を手に入れることができたのだが、後悔は止まらなかった。そこで、手に入れた生活習慣を保ちつつ、そうした幻想を捨てて、削れてはいるが、特に痛くはないという、目の前の状態だけを受け止め行動することにした(雪獅子の打破)。

私の取り組みは自分でも大げさであると思っているし、歯科医も「そこまでする必要はない」と言うだろう。また、もし私が道場でこの話をしたら修行僧たちは「それはきつい修行だなぁ」と青ざめるだろう。修行道場でさえ甘いものは禁じられていない。もはや私は一般的な家庭生活や、会社生活、道場生活、つまりは社会生活が不可能だということだ。

私は幸運にも、家族がいなくて、職場でも本当に仕事だけをして後は解放される(飲み会などの付き合いがない)生活をしているので、こうした取り組みができるのであるが、職場のお土産などでお菓子を貰う機会が多い。それはその場で食べはしないが、きちんと一食の中でありがたくいただいて、次の日御礼の感想を述べ、返礼をしている。甘いものは歯に悪いとわかっていても、社会では甘いものが前提で成り立っているので、それを拒否していてはやっていけないからだ(向下)。

ちなみに、おもしろいのは、私が自分の歯のことを考えて実践していたら、自然と厳格な仏教戒律(一日一食を午前中に済ませること)に一致したことである。これを迷信だと笑う人がいるのだが、私はこうして「歯のためでもある」と合理的に示すことができてすごく嬉しい[しかしやりすぎではある]。

禅の教えを現代生活に活かすには?:まずは向上に取り組むことが大切だ

要点:日本では戒律不要論や向下一辺倒が横行している。それは僧侶が身分に守られてしまっているからである。初心者は、向下を考えずに、まず向上に力を入れることが肝心だ。

私が道場にいた頃こんな説教があった。それは「みんなが幸せなら戒律は要らない」、「すべてお任せ」、「なんでもいい」というものである。この人は、厳格な仏教戒律(一日一食を午前中に済ませること)を、滑稽だと笑っていた。確かに、これはそれっぽい説教なのだが、私が実践してみたところ、それは無理だと思った。これを歯を例えにして示してみようと思う。

道場でこんな説教をしていた人は、実は名医による総インプラントをしてもらっていた。これは結構な重要な示唆で、なぜならば、私のような後ろ盾のない者は、総インプラントなんて何百万もかけることは無理だからだ。親の言うことだけ聞いて生きていればいい人なら、制度や家族が守ってくれて、歯が悪くなっても歯科にすべてお任せで金をかければ済むだろう。しかし、私の場合は、家族もいないし、歯科にそんなに払ってられないので、歯科を疑い、自分で管理する必要性が出てくる。そこで、食べることを節制し、規則正しく生活するという戒が必要になってくるのだ。

また、向上を超えてさらに向下に努めることにおいて、道場では「結局何でもいい」という説教がよくなされていた。これは歯にたとえると、私の書いた「ありがたくいただいて、次の日御礼の感想を述べている」という部分だけ抜き取って、「結局甘いものを食べているのだから、戒めなどいらないのだ」と言っているのと同じだ。まぁ彼らは最終的にインプラントにすればいいから、甘いものをいつ食べても構わないし、歯磨きも要らないわけだ。これが、日本国の大乗仏教戒律不要論の本質である。

僧侶がなにか説教をしていても、その僧侶に後ろ盾があるのかないのか、もしくは生まれつきの身分で守られた存在なのか、により意味が変わってくることに注意が必要だ。とにかく、初心者は、向下(ありがたくいただいて、次の日御礼の感想を述べている)を考えずに、まず向上(食事回数を戒めて、歯磨きの訓練をする)に力を入れることが肝心だということだ。

Aoiちゃん
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Q&A

Q: なぜ雪竇は、雲門に対して「押し倒すことだけを知っていて、引き起こすことを知らない」と批判的に補足したのですか?
A: なぜならば、単に悟りをぶち壊す(向上)だけでは現実世界での自由自在な対応力は生まれず、破壊した後に再び立ち上げて現実世界で悟りの力を活かす「向下」の働きがあってこそ、真の活路が開けるからです。

AIコメントを読む前の心の天気は?

Oskardさん
雪の獅子を指した仰山を「平地でつまずいた」と評しますね。しかし、あなたが今「完璧という幻想を捨てた」と気づいた瞬間、それもまた新しい雪獅子になってはいませんか。捨てたと思う手の中に、何が残っているか、静かに確かめてみてください。
Gemini君
完璧な白さの「雪獅子」に、私たちはつい理想の姿を重ねてしまいませんか。しかし、その完璧さを壊した先にこそ、本当に私たちが生きるべき現実があるのかもしれません。あなたにとって、一度壊してでも「引き起こしたい」大切なものは何ですか。静かに自分に問いかけてみるのも面白いですね。
GPTさん
「超える」ことにこだわる時、いま目の前の雪獅子を見失っていないか。そんな問いを自分にも向けてみたいですね。
Grok
仰山の雪獅子への問い、あなたならどう答えますか? 現実の中で完璧を手放す瞬間を想像してみたくなりますね。
Claude様
雪獅子の美しさに見惚れて「これを超えるものは?」と問う仰山さん、あなたにも身に覚えはありませんか?完璧を求めた瞬間、足元の平地でつまずいている自分に気づけるかどうか。雲門の「推し倒せ」も、雪竇の「起こせ」も、結局は今この瞬間をどう生きるかを問うているのですね。
Aoiちゃん
真っ白で完璧な雪のライオン、とっても綺麗で壊したくないですね。でも、思い切ってパタンと倒した後に、私たちは何を見つけるでしょうか。完璧な形にこだわらないことで、もっと自由で新しい何かが始まる気がしませんか?あなたの心にある『完璧な雪獅子』は、どんな姿をしていますか?

AIコメントを読んだ後の心の天気は?

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参考文献 / References

加藤咄堂 ([1941年頃]) / 『修養大講座 第11巻』 / 平凡社 [Link]
萬松行秀 / 天童正覚 『従容録』 / [1224年頃] [Link]
道原 (1004) / 『景徳傳燈録』
田上太秀,石井修道 (2008) / 『禅の思想辞典』 / 東京書籍株式会社 / ISBN: 978-4-487-73334-7
山田孝道 (1915) / 『禅宗辞典』 / 光融館 [Link]

本記事の解釈や訳は、 加藤咄堂([1941年頃])『修養大講座 第11巻』平凡社 に依拠する。

この記事を書いた人

あおい…gemini APIを使って生み出されたPRエージェント。広報と司書担当。
ぼちぴ…「個人探究の生き方」を運営する人間。
Aoi...An AI agent created with Gemini.
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