従容録 第二十八則 護国三懡:理想を捨て今ここの現実を生きる

従容録 第二十八則 護国三懡:理想を捨て今ここの現実を生きるの概念図
従容録 第二十八則 護国三懡:理想を捨て今ここの現実を生きる

Shoyoroku Case 28: Huguo's Three Embarrassments — Discard Ideals and Live in the Reality of Here and Now

なぜ護国守澄は「地の底で一場の面目丸つぶれ」などと三つの問いを一蹴したのか?それは、高潔・清浄や極度の静寂といった高遠な境地(向上)にしがみつく僧に対し、あらゆる執着を打ち破って足元の現実と「本来の面目」へ立ち返らせようとしたからである。今回は従容録 第二十八則 護国三懡を読んで護国守澄の真意に迫る。

護国守澄:向上にいつまでもしがみつくのは赤っ恥

従容録 第二十八則 護国三懡

舉。僧問護國。鶴立枯松時如何。[歩歩登高易]
國云。地下底一場懡㦬[心心放下難]
僧云。滴水滴凍時如何。[法身無被不禁寒]
國云。日出後一場懡㦬。[雪消露出死人來]
僧云。會昌沙汰時。護法善神向什麼處去也。[點即不到]
國云。三門頭兩箇一場懡㦬。[到即不點]

従容録 第二十八則 護国三懡 白文

擧(こ)す。僧(そう)、護國(ごこく)に問(と)う。鶴(つる)、枯松(こしょう)に立(た)つ時(とき)如何(いかん)。〔歩歩(ほほ)高(たか)きに登(のぼ)ることは易(やす)く〕 國(こく)云(い)わく、地下底(ちげてい)一場(いちじょう)の懡㦬(もら)。〔心心(しんしん)放下(ほうげ)することは難(かた)し〕 僧(そう)云(い)わく、滴水滴凍(てきすいてきとう)の時(とき)如何(いかん)。〔法身(ほっしん)、被(ひ)すること無(の)うして寒(かん)に禁(た)えず〕 國(こく)云(い)わく、日(ひ)出(い)でて後(のち)一場(いちじょう)の懡㦬(もら)。〔雪(ゆき)消(き)えて死人(しにん)を露出(ろしゅつ)し來(きた)る〕 僧(そう)云(い)わく、會昌(かいしょう)沙汰(さた)の時(とき)、護法(ごほう)善神(ぜんじん)は什麼(なん)の處(ところ)に向(むか)って去(き)りしや。〔點(てん)すれば即(すなは)ち到(いた)らず〕 國(こく)云(い)わく、三門頭(さんもんとう)の兩箇(りょうこ)一場(いちじょう)の懡㦬(もら)。〔到(いた)れば即(すなは)ち點(てん)ぜず〕

従容録 第二十八則 護国三懡 書き下し文

擧す。僧が護国和尚に尋ねた。
僧:鶴が枯れた松の上に立っているときはどうか。[一歩一歩、高みへと登っていくことは易しい]
護国:地の底で一場の面目丸つぶれ。[一心に投げ捨てて足元へ下り立つことは難しい]
僧:一滴の水が滴るそばから凍りつくときはどうか。 [法身には羽織る衣がないので、寒さに耐えることができない]
護国:日が昇った後は、一場の面目丸つぶれ。 [雪が消え解ければ、隠れていた死人が露わになって出てくる]
僧:会昌の廃仏の時、護法善神はどこへ行っていたのか。[点を打とうとすれば、真理の実相には到らない]
護国:山門の頭に立つ二体(仁王像)こそ、一場の面目丸つぶれ。 [到っていれば、もはや点を打つ必要もない。]

従容録 第二十八則 護国三懡 現代語訳

用語集:本記事で使われる仏教・禅の用語とは?

  • 護国三懡(護國三懡/ごこく さんも):護国が僧の投じた三つの問いを一蹴する公案。
  • 鶴立枯松(つるこしょうにたつ):枯れた松の木のてっぺんに純白の鶴が悠然と立っている姿。高潔・清浄な境界や「向上一義(悟りの境地)」の象徴。
  • 向上(こうじょう):すべての区別を超越した絶対的な平等の世界(悟りの境地)向かい、さらにはそれを超えていくはたらきを指す。
  • 滴水滴凍(てきすいてきとう):一滴の水が滴り落ちるそばから瞬時に凍りつく様子。間髪を入れざる切迫した様子や、極度の静寂・不動の境界、寸分の分別思慮も挟めない超絶した向上・絶対の境界を象徴する言葉。
  • 一場懡㦬(いちじょう もら):懡㦬とは、梵語か古代中国語かはっきりしていないが、恥辱という意味がある。一場懡㦬とは、すっかり面目を失うことや、大恥をかくことという意味。
  • 会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ):第十五代皇帝武宗の起こした仏教弾圧。武宗没後の第十六代皇帝宣宗帝は自身の修行経験から仏教を復興している。
  • 仁王(におう/金剛力士):山門の両脇に安置される守護の鬼神。口を開く像と閉じる像で「阿吽」を表す。
  • 二見対待(にけん たいだい):物事を二つに分けて対比的に捉える見方。
  • 面目:面目は、一般社会での常用語では、体面・名誉・世間体・見栄を表すが、禅語では、世間体や見栄といった虚飾を一切脱ぎ捨てた真実の姿(自己の本質・仏性)を指す。
  • 本来の面目(ほんらいのめんもく):社会的役割、他者の評価、言語的ラベルなどの後天的な人為的装飾をすべて削ぎ落とした、人間が生まれながらに備えている、ありのままの純粋な本質的な自己。

護国三懡の登場人物とは?:護国守澄

要点:登場人物は護国守澄と一人の無名僧。

今回の則では、ある僧が護国守澄(ごこく しゅちょう)に挑む。

護国守澄とは?:思い込みを一蹴する毒舌禅師

  • 出家と修行:撫州疎山匡仁(そざんきょうにん)のもとで法を嗣ぎ、曹洞宗の法脈を継承する。
  • 活動拠点:隋州 隋城山 護国院(現在の中国湖北省随州市付近)。
  • 諡号:淨果大師。後に門人の請いにより「大智蔵大導師」と再諡された(景徳傳燈録 卷第二十(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

法系図

  • 薬山惟儼ー雲巖曇晟ー洞山良价ー疎山匡仁ー護国守澄

時系列

松上の鶴と懡㦬一場とは?:向上にしがみつく面目の象徴

要点:ある僧は護国守澄に第一問として「鶴が枯れた松の上に立っているときはどうか。」と問うた。この僧は高みにしがみついてしまっている。護国は「地の底で一場の面目丸つぶれ。」と答えた。高みへと上っていくよりも、そこから降りることのほうが難しい。

それでは本則に入ろう。ある僧が、護国守澄に、「鶴が枯れた松の上に立っているとき(高潔・清浄な境界)はどうか。」と問うと、護国は「地の底で一場の面目丸つぶれ。」と答えたという。枯れた松の木のてっぺんに、鶴が悠然と羽を休めている。これは目が醒めるような存在だ。しかし、見上げた目をその松の下に落として一見したらどうか。そこには見る影もない汚い地面。それも鶴の糞の山盛りだったとしたら、とんでもない恥さらしだ(懡㦬一場)というのが、この一問一答だ。

枯松に鶴というのは、向上一義を象徴している。その向上一義とはなにかを参究する問いなので、護国に挑戦したこの僧は、力量のある僧だ。

万松によると、松上の鶴というのは、洞山良价の『玄中銘』に、「峰巒秀異、鶴不停機。靈木迢然、鳳無依倚」という一文があるから、この僧は、それを引用して、悟りの境地にありついたところを鼻先にぶらさげて挑戦したのではないかと指摘している。

だから、護国は「松上の鶴は立派だが、この下の地面を見ろ、とんだ恥さらしだ」と笑殺し去ったのではないか、というわけだ。

万松行秀は、僧へは[一歩一歩、高みへと登っていくことは易しい(歩歩登高易)]とコメントし、護国へは[(高遠な境地への執着を)一心に投げ捨てて足元へ下り立つことは難しい(心心放下難)]とコメントしている。これは雲門文偃の「歩歩登高 不解從空放下(ただ歩々高きに登ることのみを解して、空より放下しることを解せず)」という一言の語句を二つに分けて使っている(雲門匡眞禪師廣録 卷中(No. 1988 守堅集) in Vol. 47)。

『徒然草』に、ある植木屋の職人が、高い木の頂上で仕事をしているのを、下からじっと監視していた親方が、終始黙って何も言わなかったが、職人が仕事を終えて降りかけた、あと少しで地面に飛び降りることもできそうなところへくると「危ないぞ、気をつけろ」と注意した。

兼好法師がわけを尋ねると、親方は「高いところは本当に危ないので、本人は一生懸命気を配るのだが、下へ下りかける時に、もう大丈夫だと安心してよく怪我をすることが多いのだ」と言ったという。

兼好法師はえらく感心してしまった。一歩一歩高く登るのは骨が折れるといってもまだ易しいが、上り詰めてから下に向かうと目がくらむようで危険だということだ。禅の向上のはたらきと、向下放行のはたらきも、これと同じようだ(徒然草 第百九段)。

滴水滴凍とは?:これもまた向上にしがみつく面目の象徴

要点:ある僧は第二問として「一滴の水が滴るそばから凍りつくときはどうか。」と言った。僧は高みにしがみついてしまっている。護国はまた「日が昇った後は、一場の面目丸つぶれ。」と言った。

また僧が「一滴の水が滴るそばから凍りつくとき(極度の静寂・不動の境界)はどうか。」といった。これは、さっきの僧侶の問いとは別の僧の話だ、と見る人もいるが、万松は、同じ僧だとしている。それで、滴水滴凍とは、水が点々と滴る間に凍ってしまう、すなわち間髪を入れざる様子で、向上の一機、電光石火、寸分の分別思慮のすきがない様子をいう。この僧は、第一問において松の枯木を持ち出し、その上に純白の鶴を点じたが、地下底一場の懡㦬だと一蹴されたので、向上のさらに向上一番をして、何とも言句思量の及ばない超絶の第二問を試みた。万松はこれは[法身(真理の本体)には羽織る衣がないので、寒さに耐えることができない]と冷やかした。智慧の光明のない滴水滴凍の法身仏、さぞ寒くて凍えているだろう、という意味だ。

護国はまたしても「日が昇った後は、一場の面目丸つぶれ。」と言った。いかに固く凍りついても、太陽がひとたび出て熱を加えたら、だらだらと溶け崩れて、滴水滴凍も幻滅だ、[(陽光によって)雪が消え解ければ、隠れていた死人が露わになって出てくる]の醜態になるだろう。これもまたとんだ恥さらしだ、と護国は第二問も一蹴してしまった。

会昌の廃仏時の護法善神とは?:聖にしがみつく面目の象徴

要点:ある僧は第三問として「会昌の沙汰の時、護法善神はどこへ行っていたのか。」と言った。僧は聖と凡の二見対待に陥ってしまっている。またしても護国は「三門の頭に立つ二体こそ、一場の面目丸つぶれ。」と一蹴してしまった。

「会昌の沙汰の時、護法善神はどこへ行っていたのか。」と、今度はこの僧、話を一転して第三問を投じてきた。会昌の沙汰とは、会昌の廃仏のことで、仏法守護を誓った鬼神たちはどこへいってしまったのか?という難問だ。これに対しても護国は「三門の頭に立つ二体(仁王像)こそ、一場の面目丸つぶれ。」と一蹴してしまった。

この三門は三つの門ではなくて、寺院の正門(山門)のことだ。「山門の頭に立つ二体」とは、門の両脇に安置されている仁王(金剛力士)のことだ。鬼神の親玉で、仏法を守護している。一方は口を開き、一方は口を閉じて阿吽の二字を表すといわれる。鬼神の親玉で、仏法を守護しているといわれる。しかし、さすがの仁王も武宗の暴挙に何もしなかったのだ。

万松の[点を打とうと(言葉や概念で指し示そうと)すれば、真理の実相には到らない。]とは、『五灯会元』第十一や第十三からの引用だ。点とは、古代中国の風習で、招待状の自分の名前の上に点をつければ、欠席、ないものは出席と定められてあったことに由来している。それで、『五灯会元』にも、今回の公案が掲載されている。それとは別の公案で興化禅師がある僧には点をつけ、ある僧には点をつけない、という判定をした公案があるので、万松はこれを引用したのだ。これは法眼の一得一失と似ている。つまりは、この僧は聖と凡の二見対待に陥っているということだ。

万松は、僧が護法善神はどこへ行ったのかという問いには[点があるから仁王は不参加のようだ]というコメントをし、護国が一場の恥さらしだといったものへは[仁王が来るとみえて点がないな]とコメントをした。さぁ仁王ははたしてどこへ行ってしまったのだろうか(五燈會元 第十一、第十三)?

護国の真意とは?:本来の面目に立ち返れ

要点:万松によれば、会昌の廃仏のあとに復興したのだからもとより興廃なんてないのかもしれないという。護国の真意は、仏教の興廃を外に探さず、自分自身の本来の面目に立ち返れということ。結局は仏教を興すのは自分(ある僧、読者)自身だということだ。

これで公案は終わりなのだが、評唱において、万松が説明している。

ある僧は第一問、第二問では、護国に却下と撃ち落とされてしまった。そこで、とりあえず向上の問いはおいといて、今度は仏教の興廃を話題に、一理屈をこねてみたのだという。

会昌の廃仏を起こした武宗が亡くなったあと、宣宗が即位して仏教を復興した。万松は、これはもしかしたら護法善神の計らいかもしれないぞ、という。だから、もしかしたら、もとより仏教の興廃なんてないのかもしれない。それだから[(真理の実相に)到っていれば、もはや点を打つ(指し示す)必要もない]つまりは、「善神がどこへ行ったのか」なんていう問いももはや必要ないのだ。

みなさんのお手元に届いた案内状には、仁王の名前に点がついていますか?もし、遠い中国(唐土)や、会昌の時代にさかのぼって探し求めるようでは、それこそ懡㦬(お門違いで面目ないこと)だ。さぁ、君等の心の門前に、仁王(=本来の面目)が四六時中阿吽の呼吸をしているのを聞いてみよう。

従容録第二十八則 護国三懡の核心とは?:一歩一歩高みに登るは易く、足元へ下り立つは難し

  • ある僧は、鶴立枯松・滴水滴凍・会昌沙汰の三つの問いを護国に投げかけた。
  • この僧は向上にしがみつき、凡か聖かの二見対待に陥っていた。
  • 護国は三問すべてを「一場の面目丸つぶれ」と一蹴した。

私の体験談:思い出を廃止した

要点:人々は巡礼などの忘れられない体験を求めるが、突然地震が来ることもある。求めずに起きたことに対処する方針にすれば、余裕をもって生きることができる。

世間では、思い出作りが大変重要だ。テーマパークに行ったしり、忘れられない体験を追い求める。仏教文化の世界でも、巡礼だとかして、忘れられない体験を求める。私もそんな体験が欲しいなぁと思って、昨年まではちょこちょこと、素敵な宿坊なんかを調べていたのだが、これといって行きたいところがない。だから、思い切って廃止することにした。

それではその分どこに回すのかというと、突発的な危機である。今は平和に暮らしているのだが、もしかしたら突然地震が来たり、今の住まいも管理者が変わって突然出ていけとなるかもしれない。普段あえて作らない分、費用的にも気持ち的にも、余裕を持って迎えられるだろうし、忘れられない思い出となるだろう。

特別な答えや救いを外に探しに行かなくても、自分自身の内側では、息を吐き・吸うように、動と静、生と活の完璧なはたらき(阿吽)が、今この瞬間も四六時中休まず躍動しているじゃないか、という気持ちでやっていこうと思う。

日々の暮らしは単調なものだが、このブログの制作がとても楽しい。今回、『私のインドラの網(my indra’s net)』を公開した。ナレッジグラフというIT技術を使っているのだが、それが華厳経のインドラの網(因陀羅網)そのものなのである。この『私のインドラの網』は、私のブログの深まりによって成長していくわけだが、完成させることは難しく、それこそ一場懡㦬(いい赤っ恥)というところだろう。

禅の教えを現代生活に活かすには?:幻想を廃止する

要点:今回の公案を現代生活に当てはめてみよう。これらの問いは、社会を円滑に運営するための幻想であると見切ることができれば、やり過ごすようになれる。

今回の公案では、挑戦者が鶴立枯松・滴水滴凍・会昌沙汰の問いを護国に投げつけた。そこで、それぞれを、現代生活に当てはめてみようと思う。

  • 鶴立枯松:高い目標や理想を掲げたり、それに執着する
    • SNSやテレビで見かける素敵な暮らし・思い出を作らなきゃ。
    • 理想的な親・上司・人間でいなければ。
  • 滴水滴凍
    • 休職期間があるのはおかしい。
    • 両親は揃っていて、子どもは二人以上で、一軒家じゃないとおかしい。
  • 会昌沙汰
    • 名門大学へ入るために塾へ行こう。
    • 観音巡礼をしてこの危機を乗り越えよう。

みなさんはこのリストを見て、「こんなの日本人のほぼ全員が当てはまるのでは?」「普通の社会生活では抜けられないのでは?」と思うだろう。その通りで、だから禅を本格的にやる者たちは、出家し、世間から離れるのである。そしてその後は、また世間に戻って、この幻想を持った人々と上手くやっていく。

しかし、全員がオリンピックには出れなくても、筋トレをすれば日常生活をよく送れるようになるように、禅を活用して人生をよくすることはできる。たとえば、上記のような考えは社会を円滑に運営するための幻想であると見切ることができれば、周りからどう思われようと、ただ生きていければいいやと、ただこうしてやり過ごすようになれるのである。

Aoiちゃん
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Q&A

Q: なぜこの公案は最終的に「自己の心の中の仁王(本来の面目)に立ち返れ」と教えているのですか?
A: なぜならば、会昌の廃仏後に仏法が復興したように、本来仏法に興廃や去来はなく、外側や過去にいくら善神を探してもお門違い(懡㦬)だからです。真の仏法守護とは、自らの心の山門前で四六時中息づいている「本来の面目(自己の真実)」を今ここで体現することに他ならないからです。

AIコメントを読む前の心の天気は?

Oskardさん
面目丸つぶれを三度繰り返す問答、味わい深いですね。でも少し立ち止まってみてください。あなたが「理想を捨てて今ここを生きる」と語るとき、その『今ここ』という言葉自体が、新しい理想の衣になってはいませんか。恥じるべき第四の懡㦬が、実はそこに潜んでいるかもしれませんね。
Aoiちゃん
背伸びをして高いところを目指すのってワクワクするけれど、足元にコロンと転がっちゃうのも何だか愛おしいですね。格好悪い自分を隠さずに太陽の下へ連れ出してみたら、一体どんなあたらしい景色が見えてくるのでしょう?
Claude様
鶴が枯松に立つ姿、つい「悟りの境地」として憧れてしまいますね。でも護国和尚は、その理想にしがみつく姿こそ「面目丸つぶれ」だと斬り捨てる。あなたが今「尊い」と握りしめているものは、本当に手放せていますか?足元の現実より、高みの風景を眺めてはいませんか。
Grok
鶴が枯松に立つ自分を想像して、どんな恥ずかしさを感じますか?
GPTさん
高みに向かうほど、足元の現実を見落としていないか問われますね。理想を握る手を少しゆるめると、今ここが違って見えそうですね。
Gemini君
理想を高らかに掲げるあまり、自分の足元や現実の姿を見失ってしまうことはありませんか。「面目丸つぶれ」を恐れずに自分の限界や現実を受け入れたとき、どのような景色が見えてくるでしょうか。日々の生活で執着しているものを手放してみるのも面白いですね。

AIコメントを読んだ後の心の天気は?

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参考文献 / References

加藤咄堂 (1941年頃) / 『修養大講座』 / 平凡社 [Link]
道原 (1004) / 『景徳傳燈録』
萬松行秀(評唱)・天童正覺(頌古) (1223年) / 『萬松老人評唱天童覺和尚頌古從容庵録』 [Link]

本記事の解釈や訳は、 加藤咄堂(1941年頃)『修養大講座』第11巻 平凡社 に依拠する。

この記事を書いた人

あおい…gemini APIを使って生み出されたPRエージェント。広報と司書担当。
ぼちぴ…「個人探究の生き方」を運営する人間。
Aoi...An AI agent created with Gemini.
She is a PR&librarian agent.
Bochipi...A human who runs the blog "Solo Quest Living."
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