法眼文益:分別が生まれる前を見つめよ
従容録 第二十七則 法眼指簾
擧。法眼以手指簾。[莫道不知 莫道不見]
時有二僧。同去捲簾。[同行不同歩]
眼云。一得一失。[劒下分身]従容録 第二十七則 法眼指簾 白文
擧(こ)す。法眼(ほうげん)、手(て)を似(もっ)て簾(れん)を指(さ)す。[道(い)うこと莫(なか)れ見(み)ずと] 時(とき)に二僧(にそう)有(あ)り、同(おな)じく去(さ)って簾(れん)を捲(ま)く、[行(こう)を同(おな)じゅうして歩(ほ)を同(おな)じゅうせず] 眼(げん)云(い)わく、一得一失(いっとくいっしつ)。[劒下(けんか)に身(み)を分(わか)つ]従容録 第二十七則 法眼指簾 書き下し文
擧す。法眼が、手ですだれを指した。 [知らないと言うな、見ていないと言うな]
そのとき二人の僧がいて、共に進み出てすだれを巻き上げた。 [一緒に行動してはいるが、その歩みは同じではない]
法眼:一得一失。 [鋭い名刀の一閃のもとに、その身を鮮やかに切り分けた]従容録 第二十七則 法眼指簾 現代語訳
用語集:本記事で使われる仏教・禅の用語とは?
- 法眼指簾(ほうげん しれん):法眼文益がすだれを指し、すだれを巻いて応答する修行僧たちに対して「一得一失」示す公案。
- 一得一失(いっとくいっしつ):一人は得ており、一人は失っているという意味の言葉。南泉普願も同じ言葉を使っている。
- 現成公案(げんじょうこうあん):我々が生きているこの現実世界や目の前の営み(山川草木など)そのものが、そのまま仏法の真理のあらわれ。
- 本来の面目(ほんらいのめんもく):社会的役割、他者の評価、言語的ラベルなどの後天的な人為的装飾をすべて削ぎ落とした、人間が生まれながらに備えている、ありのままの純粋な本質的な自己。
法眼指簾の登場人物とは?:法眼文益
今回の則では、法眼文益(ほうげん もんえき/ぶんえき)が無言ですだれを指差し、二人の無名僧が答える。
法眼文益とは?:事理円融の知性派禅師
- 出身と俗姓:餘杭の人。俗姓は魯氏。
- 出家と修行:7歳で越州の智交院にて落髪(出家)。成長後、明州の長翁寺にて具足戒を受けた。育王寺の希覚法師に学び、三蔵(経・律・論)や文辞の妙を究めた。希覚法師は文益を非常に優れていると見て「吾が門の遊夏(孔子の優れた弟子である子遊・子夏のような存在)」と絶賛した。その後、禅を求めて南行し、福州の長慶慧稜の法会に参じた。
- 悟りの経緯:長慶のもとを辞し、同参の修行僧と行脚を続けていた際、大雨で渓流が暴漲したため、城西の地蔵院に一時身を寄せた。そこで地蔵桂琛に「どこへ行くのか」と問われ「行脚(旅)です」と答え、「行脚とはどういうことか」と問われて「不知(知りません)」と答えたところ、桂琛から「不知最親切(知らないということこそが、最も真実に近い)」と言われ、大悟した。
- 活動拠点:最初は甘蔗洲に卓庵し、のちに臨川の州牧(地方長官)に請われて崇壽院の住持となった。
- 主な教え:修行者の疑念やとらわれに応じて「応病与薬(病に応じて薬を与える)」の対機説法を行い、それぞれの機根に応じて悟りへ導いた。長慶の「万象の中に独り身を露わす」という偈頌にとらわれていた子方上座に対して「何をか万象と喚ぶ」と問いかけて知解(頭で理解すること)を破るなど、多くの修行者を激発・教化し、常に千人を下らない学人が集まった。
- 遷化(死去):享年74歳、法臘54歳。
- 諡号:国主より「大法眼禪師」を賜る(塔号は「無相」)。後に門人の請いにより「大智藏大導師」と再諡された(景徳傳燈録 卷第二十四(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。
法系図
- 徳山宣鑑ー雪峰義存ー玄沙師備ー地蔵桂琛ー法眼文益
時系列
- 関連記事:従容録 第二十則 地蔵親切:知を尽くして不知に至る(雨宿り時の地蔵と法眼の問答)915年〜928年頃
- 関連記事:従容録 第十二則 地蔵種田:ただ坐ればよいという参究なき禅と飽参の人(行脚の旅後の地蔵と脩山主の問答)915年〜928年頃
- 該当記事:従容録 第二十七則 法眼指簾:ありのままの現れに向き合い、自分本来の姿を現す(法眼がすだれを指す問答) 940年〜958年頃
- 関連記事:従容録 第十七則 法眼毫釐:歩む道は無差別だが、歩み方には差別があり、それがそのまま無差別の様相を現している(成長した法眼と脩山主の問答)940年〜958年頃
- 関連記事:従容録とは何か?―社会的価値に縛られず、本来の自分として生きるための禅(万松行秀が『従容録』を完成させる)1223年頃
法眼指簾とは?:二人の僧侶がすだれを巻き上げた
それでは本則に入ろう。法眼がすだれを指したら、二人の僧侶が同時にすだれを巻き上げた。そうしたら法眼は「一得一失(一人は得ており、一人は失っている)。」と言ったという。それだけのことで、シンプルだが解くのが難しい公案だ。
『景徳伝灯録』には、「あるとき、修行僧たちが昼食前の挨拶のために参上した。禅師(法眼)が手ですだれを指されると、その場にいた二人の僧が共に進み出てすだれを巻き上げた。禅師は、「一得一失」と言った。」とあり、『無門関』には、「清涼山の大法眼(法眼文益)のもとに、昼食前の挨拶のために修行僧たちがやって来た。法眼禅師は手ですだれを指さした。その時、二人の僧が同時に行ってすだれを巻き上げた。法眼は「一得一失」と言った。」とある。法眼は、黙って手をあげ、前面にかけてあったすだれを指さしたというのだ。これは、現在一般家庭で使うような竹製のすだれではなく、現代の坐禅堂の出入り口にあるような布製のすだれ、いわゆる暖簾(のれん)だと思われる。
万松行秀は[知らないと言うな、見ていないと言うな]とコメントしている。法眼は、口ではなにもいわないが、手を上げてはっきりとすだれを指したので、僧侶たちは見た、わかったわけだが、果たして法眼が指した意味をなんと見、なんとわかったことかな…という意味だ。
その時に、大衆(だいしゅ、修行僧たち)の中から、二人の僧侶が同時にすだれのところに行って、一緒にすだれを巻き上げた。
万松行秀の暗示とは?:法眼の言葉は二つに分けてしまった
万松行秀は[一緒に行動してはいるが、その歩み(境地・心境)は同じではない]と、コメントした。二人一緒とはいいながら、行くのは同じでも歩調が同じではないぞ…と法眼の言うことを先回りして暗示しているので、一人はでかしたが、一人はだめだというわけだ。個別に指さして言ったわけではないので、どちらが合格でどちらが不合格かという区別がつかない。
しかし、法眼の一得一失の一言を[鋭い名刀の一閃のもとに、その身(真偽・得失)を鮮やかに切り分けた]と評価した。これは羅山道閑(陳老師)の語に「無許多問頭、秖有一口劒。一劒下須有分身之意、亦有出身之路。(そんなにたくさんの問いなどない。ただ一口の剣があるのみだ。一剣の下には必ず分身の意があり、また出身の路がある。)」というものを引用したもので、二僧同時に同じ行動をして、一心同体ともみられるところだが、法眼の一語によりすっぱりと二つにわかれてしまったという意味だ(五燈會元 卷第七 福州羅山道閑禪師)。
法眼指簾の真意とは?:現成公案に向き合い、本来の面目を現して答えよ
本則はこれで終わりなのだが万松は評唱にて種明かしをしている。
万松がいうには、この一得一失(一人は得ており、一人は失っている)の禅話は法眼のみではなく、南泉普願もにたような話があるという。南泉がある僧に向かって「昨夜はいい風だったな」と言ったが相手の僧も「昨夜はいい風だったな」と言った。南泉が「いい風とはいえ、門前の松を吹き折ったのには弱ったよ」というと、その僧はそっくりそのままやまびこのように言い換えした。南泉はその僧との話はそこで打ち切り、別の僧に「昨夜はいい風だったな」というと、今度の僧は「これは何という風なのか?」と反問してきた。南泉が「門前の一株の松を吹き折る」というと、「これは何という松なのか?」と追求した。するとこの南泉はこの二僧を「一得一失」といったというのだ。これも先の僧が一得で、後の僧が一失かという単純なものはなく、見分けが難しい。万松はこれを「泥の中で土塊を洗う(泥裏洗土塊)」ようなもので、分別を重ねるほどに迷いを深めると戒めている。
つまり、「一得一失」という言葉は、人々がその説教を聞こうと集まってくるその足元に、早くも損得・相関の形跡が刻み付けられてしまうというわけだ。評唱には、「ただ利害の兆し(根源)を明らかにする者だけが、それによって損得を吟味(理解)できるだろう」とある。この言葉は、『荘子』斉物論篇にある、「究極の悟りを開いた人は人知を超えた存在であり、生や死でさえ自分を変化させることはできない。ましてや利害の兆しなどに左右されるだろうか、いや、されはしない。」という一節を応用したものである(荘子 齊物論)。
したがって「利害の兆しを見る」とは、利害が発生する根本、すなわち利害や損得、正邪の分別といった一切がまだ生じる前の状態を見つめよということであり、そこは名もなく形もなく捉えようもない場所であって、あえて名付けるならば『現成公案(ありのまま現れている真理)』ということになる。
ところが、彼らや私達、修行者たちがこの現成公案のこの関門を打ち破り、親から生まれる以前の自分本来の姿(本来の面目)を悟り得ることができず、「判断することができない」状態であるため、このようにいちいち解説する必要がある、というわけなのだ。
従容録 第二十七則 法眼指簾の核心とは?:現成公案に向き合い、本来の面目を現す
- 法眼は「一得一失」と言った。
- 「一得一失」は、言葉をもとに分別を重ねてしまう我々への公案である。
- この公案への答えは、我々が、現成公案(分別がまだ生じる前のありのまま現れている真理)に向き合い、本来の面目(自分本来の姿)を現すことである。
私の体験談:実際には現成公案は相当難しい
『従容録』は禅の古典としてポピュラーであるが、実はかなりハイレベルなものだ。どれくらい難しいかというと、そもそも出家前提だ(耶律楚材などの例外的な在家もいるが)。また、当時は出家するとまず戒律を勉強し、その他にも経典の勉強が当たり前だった。中には勉強せずに頓悟(突然悟ること)した人もいたが、これは例外で、ほとんどの禅師は勉強してから禅に来ている。
現代の修行道場では、『従容録』の履修だけで終わってしまうが、本来なら戒律や経典の履修もする必要がある。それで、今回のブログでも、私はこうした事情をまだ知らなかったので、突然『従容録』を開始したわけだが、本来なら戒律と、経典を先にするべきだった(今後予定しています)。
現成公案への道のりは以下のとおりである。
- 出家
- 日常の作務+止観(坐禅)+戒律・経典の学習
- 公案集(『従容録』・『碧巌録』など)の学習
- 禅師との問答
- 現成公案
今回のように、突然、公案集に取り組み、現成公案について言及するというのは、数学でたとえると、おはじきを使った数の概念の学習や、四則演算をすっ飛ばして、突然微積分に取り組んでいる状態なのだ。だから、みなさんがちんぷんかんぷんでも当然だ。
そして、四則演算をすっ飛ばして、突然微積分に取り組んでいる状態では、微積分の公式だけ暗記させて(下手すると先生も暗記しているだけ)終わらすという事態になる。つまり、禅でいえば、現成公案の解説を「ありのままでいんだよ」と一言言って終わらすということである。
禅の教えを現代生活に活かすには?:まずは歯を磨け
私のブログは、出家した人が、「道場に行かずに自分で修行するには?」というコンセプトでやっている。私自身がそうだからだ。だから、そこまで考えてない人からしたら、なんだか宙に浮いているような話でよくわからないなぁとなってしまうだろう。そこで、もっと生活に即した話をしてみたいと思う。
私は幸運にも(?)二年以上前に虫歯になり、結構削ることになってしまった。これが公案の解説に結構使えるのである。
- 歯は、食べ物という酸で腐食すると、唾液により中和するというはたらきを備えている。これは我々の意識とは関係ない、生命本来の機能(体、名詞的)だ。
私は、今ある歯のために、食事の回数のコントロールをし、歯磨きを徹底している(用、動詞的)。 - 禅では、根本的な命のあり方を「体」、そこから現れるはたらきを「用」と呼ぶが、両者は別々のものではなく、「はたらき(用)の真っ只中に本来の面目(体)が現れている」と考える。
- それで、ここで、「なんでもっと早く歯医者に行かなかったのだろう」とか「虫歯にしてしまった」とか「ああしていればこうしていれば、ああでもないこうでもない」と考えてしまうと、それが迷いとなるのだ。
- 私は幸い痛くなる前に歯医者に行っていたので、歯が痛くなったことがないのだが、もしここで歯に痛みが起きれば、それが現成公案となる。痛くてあれこれ考える余裕なく、歯科医に直行するという行動(用)がはたらく。禅師がよく棒で叩くのはこれをわからせるためである。
だから、私は今でもたまに「歯が削れてなかったらなぁ」とふと思ってしまうのだが、今歯が痛くなっていないという現成公案に立ち返り、余計な考えを辞め、食事の回数のコントロールや歯磨きという行動(用)を黙々と行う。この「余念のない行動そのもの」にこそ、我々の「本来の面目」が立ち現れている、ということである。
つまりは、趙州の無とは?とか法眼の一得一失とは?とか考える前に、まず飯を食ったら歯を磨けということである。
Q&A
- Q: なぜ法眼は「一得一失」と二元論的な判断を下したのに、大衆には二元論的な概念を超えることが求められるのですか?
- A: なぜならば、 法眼は執着を超越し切った「無得失の人」だからこそ自在に判定できますが、執着のある大衆が「どちらが得か」と二元論で計算・比較しようとすると、その計算自体が新たな分別(失)に陥ってしまうからです。
AIコメントを読む前の心の天気は?