従容録 第二十四則 雪峰看蛇:本来の面目をよく見て、体得し、投げ捨てよ

従容録 第二十四則 雪峰看蛇:本来の面目をよく見て、体得し、投げ捨てよの概念図
従容録 第二十四則 雪峰看蛇:本来の面目をよく見て、体得し、投げ捨てよ

Shoyoroku Case 24: Xuefeng Shows a Snake — Look Closely at Your Original Face, Realize It, and Cast It Away

雪峰義存はなぜ、南山に一匹の毒蛇がいるといったのか?それは、触れればたちまち人を殺す猛毒を持った「鼈鼻蛇」を、人間の浅はかな分別知や妄想を完全に打ち砕く「絶対の真理(本来の面目)」に喩え、修行僧たちに他人からの借り物ではない、己に備わる本来の自己(本分)を見徹させようとしたからだ。今回は従容録 第二十四則 雪峰看蛇に取り組んで、雪峰義存の真意に迫る。

雪峰義存:自分の本分をよく見よ

従容録 第二十四則 雪峰看蛇

擧。雪峰示衆云。南山有一條鼈鼻蛇。汝等諸人切須好看。[提起坐具云。這箇不是倩來底]
長慶云。今日堂中大有人喪身失命。[聞風便颺]
僧擧似玄沙。[壘不過三]
沙云。須是我稜兄始得。[狐朋狗黨]
然雖如是我即不恁麼。[別有一條長便請拈出]
僧云。和尚作麼生。[毒蛇頭上楷痒]
沙云。用南山作麼。[只者鼇鼻猶爲分外]
雲門以拄杖攛向峰面前作怕勢。[何得自傷己命]

従容録 第二十四則 雪峰看蛇 白文

舉(こ)す。雪峰(せっぽう)。衆(しゅ)に示(しめ)して云(い)わく、南山(なんざん)に一條(いちじょう)の鼈鼻蛇(べっぴじゃ)有(あ)り。汝等(なんじら)諸人(しょにん)、切(せつ)に須(すべから)く好看(こうかん)すべしと。[坐具(ざぐ)を提起(ていき)して云(い)わん。這箇(しゃこ)は是(こ)れ倩(か)り來(きた)る底(てい)にはあらずと] 長慶(ちょうけい)云(い)はく、今日(こんにち)堂中(どうちゅう)大(おおい)に人(ひと)有(あ)つて喪身失命(そうしんしつめい)すと。[風(かぜ)を聞(き)いて便(すなわ)ち颺(あが)る] 僧(そう)、玄沙(げんしゃ)に擧似(こじ)す。[壘(かさ)ぬることは三(み)たびに過(す)ぎざれ] 沙(しゃ)云(い)わく、須(すべから)く是(こ)れ我(わ)が稜兄(りょうひん)にして始(はじ)めて得(う)べし。[狐朋狗黨(こほうくとう)] 然(しか)も是(か)くの如(ごと)くなりと雖(いえど)も我(わ)れは即(すなわ)ち不恁麼(ふいんも)。別(べつ)に一條(いちじょう)の長(ちょう)有(あ)らば便(すなわ)ち請(こ)う拈出(ねんしゅつ)せよ] 僧(そう)云(い)わく、和尚(おしょう)は作麼生(そもさん)。[毒蟲(どくちゅう)頭上(ずじょう)に痒(かゆがり)を楷(す)る] 沙(しゃ)云(い)わく、南山(なんざん)を用(もち)いて作麼(なに)かせん。[只(た)だ者(こ)の鼇鼻(べっぴ)、猶(な)お分外(ぶんがい)と爲(な)す] 雲門(うんもん)は柱杖(ちゅうじょう)を以(もっ)て峰(ほう)の面前(めんぜん)に攛向(ざんこう)して怕(おそ)るる勢(いきおい)を作(な)す。[何(なん)として自(みずか)ら己命(こめい)を傷(きずつ)くることを得(え)たる]

従容録 第二十四則 雪峰看蛇 書き下し文

舉す。雪峰が修行者たちに示して言った。
雪峰:南山に一匹の鼈鼻蛇がいる。お前たち一同、くれぐれもよく気を付けて見よ![坐具を持ち上げて言うには、これは他人から借りてきたものではないぞ]
長慶:今日、この修行道場には、身を滅ぼし命を失う者が大勢おるに違いない。[風を聞いただけで、すぐに飛び去る]
ある僧が、このやり取りを玄沙(げんしゃ)に伝えた。[同じ手は三度までは通用しない]
玄沙:やはり、我が稜兄でなければ、そこまで言えまい。[狐の仲間と犬の徒党だ]
玄沙:しかし、そうは言っても、私ならそのようには言わない[別にもう一本、より良い手立てがあるというなら、さあ、それを取り出してみせよ]
僧: 和尚なら、どのように言われますか?[毒蛇の頭の痒いところを掻いてやるようなものだ]
玄沙:わざわざ南山などという場所を持ち出してどうするのだ?[この鼈鼻蛇ということ自体、すでに本来は余計なことであるのに]
雲門は、持っていた杖を雪峰の目の前に投げ出し、怖がる仕草をしてみせた。[どうして自ら自分の命を傷つけるような真似をするのか]

従容録 第二十四則 雪峰看蛇 現代語訳

用語集:本記事で使われる仏教・禅の用語とは?

  • 雪峰看蛇(せっぽう かんじゃ):雪峰が毒蛇を呈示する公案。
  • 鼈鼻蛇(べっぴじゃ):鼻先がスッポンに似た毒蛇。マムシ・ハブ・コブラなどを指すとされる。本則では、修行者それぞれが持つ「本来の面目」の比喩として用いられる。
  • 二見対待(にけんたいだい):物事を二つに分けて対比的に捉える見方。
  • 本来の面目(ほんらいのめんもく):父母未生以前の本来の面目。言葉や理屈が生まれる前の本来の自己。
  • 不立文字(ふりゅうもんじ):禅の教えが文字や経論によるのではなく、直接的な体験(体得)を通してのみ自覚できるという教え。
  • 喪身失命(そうしんしつめい/そうしんしつみょう):思慮分別が完全に失われ、どうしようもなくなってまるで死人のようになってしまうこと。

雪峰看蛇の登場人物とは?:雪峰義存と長慶慧稜・玄沙師備・雲門文偃

要点:登場人物は雪峰義存と長慶慧稜、玄沙師備、雲門文偃、ある僧である。

今回の則では、雪峰義存(せっぽう ぎそん)が毒蛇がいるぞと切り出して問答が始まる。それに対し、弟子の長慶慧稜(ちょうけい えりょう)、玄沙師備(げんしゃ しび)、雲門文偃(うんもん ぶんえん)、ある僧が応答する。

雪峰義存とは?:控えめで実直な努力型禅師

  • 出身と俗姓:俗姓は曾氏で、出身は泉州南安(現在の福建省泉州市南安市)。
  • 出家と修行:代々仏教を信仰する家に生まれ、12歳のとき、父に連れられて莆田の玉澗寺を訪れ、慶玄律師のもとで給仕することになる。17歳で剃髪し、芙蓉霊訓(=常照大師、弘照大師)にまみえると、その器量を深く認められた。その後、幽州の宝刹寺で具足戒(正式な戒律)を受けた。
  • 悟りの経緯:多くの道場を遍歴したのち、徳山宣鑑の門下に入って法を嗣いだ。同じく徳山門下であった巌頭全豁や欽山文邃とは切磋琢磨する法友となった。
  • 活動拠点:唐の咸通年間(860年-874年)に閩(福建)に戻り、象骨山(雪峰山)に登って「雪峰院」を創建し、多くの修行僧で賑わった。
  • 遷化(死去):後梁・開平2年(908年)5月2日入滅。享年87歳、法臘59歳。
  • 諡号:真覚大師(景徳傳燈録 卷第十八(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)

長慶慧稜とは?:穏やかな言葉で万物の美しさを見抜く詩的禅師

  • 出身と俗姓:杭州塩官(現在の浙江省杭州市海寧市)出身で俗姓は孫氏。
  • 出家と修行:13歳のときに蘇州の通玄寺で出家して正式な戒律(受戒)を受けた。
  • 悟りの経緯:唐の乾符5年(878年)に閩(福建地方)に入り、西院(大安)に参じたり霊雲志勤のもとを訪ねたりしたが、まだ悟りに至らず心に滞りがあった。その後、雪峰義存の門下に入って大悟し、29年間雪峰の側にいた。
  • 活動拠点:雪峰の没後、後唐の天祐3年(906年)に泉州刺史の王延彬に請われて招慶院の住職となった。その後、福建の統治者である王氏(王審知)の要請で長楽府(福州)の西院に移ると、そこは彼の名にちなんで「長慶」と改められた。招慶院と長慶院の二処で27年間にわたり熱心に禅法を説いた。
  • 遷化(死去):長興3年(932年)5月17日入滅。享年79歳、法臘60歳。
  • 諡号:超覚大師(景徳傳燈録 卷第八(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

玄沙師備とは?:叩き上げの実践派禅師

  • 出身と俗姓:福州閩縣(現在の福建省)の出身で、俗姓は謝氏。
  • 幼少期:若い頃は釣りを好み、南臺江で小舟を浮かべて漁をしていた。
  • 出家と修行:唐の咸通年間、30歳の時に突然出家を志して漁舟を捨てた。芙蓉山霊訓のもとで剃髪し、豫章の開元寺の道玄律師から具足戒を受けた。
  • 雪峰義存とは芙蓉山霊訓門下の兄弟分で、雪峰はその苦行ぶりから彼を「備頭陀(びずだ)」と呼んだ。
  • 悟りの経緯:雪峰とともに象骨山(雪峰山)の開創を助け、朝晩欠かさず教えを請うたほか、『楞厳経』を閲覧して悟りを得、雪峰義存の法を嗣いだ。
  • 活動拠点:初めは梅谿場の普応院に住み、後に玄沙山に移った。閩(びん)の王氏(王審知)の帰依を受け、門弟子は800人を超えた。
  • 主な教え:「尽十方世界は一顆の明珠(みょうじゅ)なり」(この世界すべてが一つの輝く宝珠である)
  • 遷化(死去):享年は74歳、法臘(僧侶としての年数)は44歳で後梁の開平2年(908年)11月27日に示寂。
  • 諡号:宗一大師(景徳傳燈録 卷第十八(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

雪峰義存と玄沙師備は、芙蓉霊訓のもとで出家しているので、同門(対等な法友)だが、系譜(禅門家系図)上は師弟ということになっている。雪峰義存は徳山宣鑑の下に入ったが、玄沙師備にはそういうことがなかったので、系譜の何処かに位置づけなければいけない必要が生じ、雪峰義存を「師」として法系を登録するのが、系譜を整える上で最も都合がよかったのではないか?という疑惑がある。

唐代(雪峰義存や玄沙師備が活躍した時代)のあとの宋代に、いろいろな禅の古典がまとめられたが、この時代は、禅宗が国家公認の仏教として国家体制の中に深く食い込んでいく時期だった。特に伝記、系譜は、国家的な公認プロジェクトであり、国家体制において自分らの正当性と権威を保つために重要だった。今でも系譜は、禅宗が正しいと主張する根拠として現役だ。

しかし、『従容録』を読んでいると、国家が公認するような「正統な系譜」や、誰かに認めてもらう「印可の証明」は重要ではなく、他に頼らない自己(個人の悟り)こそがすべてであるということだ。なぜ、伝記(景徳伝灯録)では系譜が重要だったのに、従容録ではそうではないのかというと、従容録は国家プロジェクトではなく、民間、つまり熱心な者による編纂だったからだ。

雲門文偃とは?:キレのある一字をくらわす頭脳派禅師

  • 浙江省嘉興(現在の浙江省嘉興市)の人で、俗姓は張氏。
  • 睦州の睦州道蹤(陳尊宿)に参じて禅の大旨を明らかにした。
  • 雪峰義存(せっぽう ぎそん)の法嗣となった。
  • 韶州(広東省)の霊樹如敏(りょうじゅ にょびん / れいじゅ にょびん)の跡を継いで住持となった。
  • 韶州の雲門山光泰院に住んで韶陽(しょうよう)禅師とも呼ばれた。
  • 雲門はのちに雲門宗の祖となった。
  • 諡号:匡真禅師(景徳傳燈録 卷第十九(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

法系図

  • 徳山宣鑑ー雪峰義存ー玄沙師備
  • 徳山宣鑑ー雪峰義存ー長慶慧稜
  • 徳山宣鑑ー雪峰義存ー雲門文偃

雪峰の鼈鼻蛇とは?:本来の面目

要点:雪峰が鼈鼻蛇を提示した。これは、自分の本分をよく見よ!ということである。

それでは本則に入ろう。雪峰のもとで、長慶・雲門が修行をしていた時、雪峰が、修行僧たちに向かって「南山に一匹の鼈鼻蛇(へっぴじゃ)がいる。お前たち一同、くれぐれもよく気を付けて見よ!」と言った。この鼈鼻蛇というのは、諸説あるのだが、鼻先がスッポンに似た蛇で、マムシやハブ、コブラのことを鼈鼻蛇と言っていたようだ。また、南山についても諸説がるが、雪峰山のことをいっているようだ。

それでは、この鼈鼻蛇とは何なのかというと、それぞれが持っている本来の面目(ほんらいのめんもく)のことだ。本来の面目は言葉や理屈が生まれる前の本来の自己のことだから、それぞれが持っている本分を見徹せよ、ということだ。

万松行秀は「坐具を持ち上げて言う、これは他人から借りてきたものではないぞ」とコメントしている。坐具というのは、長方形の敷物で、この上で礼拝したり坐ったりする。つまりは、座具は礼儀の象徴であり、本来の面目は、他人の面目を借りてくるものではありません、という雪峰に対しての敬意をあらわしている。

長慶の鼈鼻蛇とは?:真理という毒により分別や妄想を打ち砕く

要点:長慶は本来の面目を見切り、それすら無いという境地に至ったことを宣言した。玄沙はこれを認め、長慶をたたえた。

長慶は雪峰の鼈鼻蛇の話を聞いて、「今日、この修行道場には、身を滅ぼし命を失う者が大勢おるに違いない。」と言った。長慶は、雪峰が言う鼈鼻蛇の意味を正しく理解することができたのだ。これは「雪峰和尚の投げ出された一匹の蛇のために、現在ここにすっかり猛毒にあてられて、ころりと死んだ人がいます」という、本来の面目を徹見した者には、本来の面目らしい面目すらない、喪身失命で、長慶はそれに成りきったぞという宣言だ。どういうことかというと、修行者は分別知や妄想という生ぬるい毒を持ったまま生きており、この鼈鼻蛇の毒は、触れればたちまち人を殺す(真理のはたらき)のだ。これを突きつけることで、修行者が抱える分別知や妄想という「生ぬるい毒」を徹底的に打ち砕き、死にきらせようというわけなのだ。

しかし、万松は[風を聞いただけで、すぐに飛び去る]と野次っている。これは、順風に帆を上げて、得意満面に軽率だなぁ、更に高く目を向けよ、という意味だ。

ある僧がこの話を玄沙に伝えた。長慶も玄沙も雪峰の弟子で、長慶は玄沙の弟弟子にあたる。この時、雪峰山とは別の地域である安国院で既に師家(しけ、指導者)となっていた。そこへある僧が、雪峰山からやってきて、この話をしたのだ。万松は「同じ手は三度までは通用しない」とコメントしている。これは、この僧は、雪峰山で聞いて、今また玄沙のところで問う。同じことを何度も聞くな、という意味だ。なぜ三回までかというと、『大智度論』百に、一回だけでは足りないが、三度では多すぎる(復次若一説猶緩過三太急)とあることにちなむ(大智度論 大智度論 龍樹造 鳩摩羅什譯 in Vol. 25、大智度論釋曇無竭品第八十九卷第一百)。

それを聞いた玄沙は、さも感心したように「やはり、我が稜兄(りょうひん)でなければ、そこまで言えまい。」という。稜というのは、長慶慧稜の稜で、兄というのは修行僧への敬称だ。現代の修行道場でも、配役表では、兄(ひん)が使われることがある(女性であっても兄)。これは、さすが長慶は雪峰の鼈鼻蛇が何であるか、この正体を突き止めることができた、この人でないとできないぞ、という意味だ。これは実は今目の前にいるこの僧に、おまえもこの毒蛇をよく見ろ、と老婆心をつくしているのだ。これが明晰な僧であるならば、長慶も玄沙も同じ穴の狐か狸であることを看破するのだが、この僧はどうやら無理そうだ。それで万松が[狐の仲間と犬の徒党だ]と突っ込んだのだ。

同じ穴の狐でも、玄沙の方が長慶よりもやや功を得た様子がみえる。一応、長慶をほめてはいるが、同時に「しかし、そうは言っても、私ならそのようには言わない」と言っている。万松は[別にもう一本、より良い手立てがあるというなら、さあ、それを取り出してみせよ]と迫った。自分は長慶とは違う、というなら、それをひねり出して見せてくれ、という意味だ。ここで、愚かな犬が、投げつけられた石ころを追いかけるように、僧が「和尚なら、どのように言われますか?」と言った。これは、毒蛇だのという言語にとらわれてしまっている。万松は[毒蛇の頭の痒いところを掻いてやるようなものだ]、たいそう危険だなぁとコメントした。

玄沙の鼈鼻蛇とは?:どこにでもいる

要点:場所(南山)は関係なく、鼈鼻蛇(本来の面目)はどこにでも、誰の足元にもいるというのが玄沙の指摘だ。

玄沙は、「わざわざ南山などという場所を持ち出してどうするのだ?」と言った。雪峰が南山に鼈鼻蛇がいるといえば、長慶はただちにその猛毒にあたって死んだという。しかし、南山は余計だなぁ、猛毒で、人を喪身喪失させる蛇は何も南山(雪峰山)だけでなく、どこにでもいるぞ、ということだ。万松は[この鼈鼻蛇ということ自体、すでに本来は余計なことであるのに]とコメントした。これは、玄沙は南山は関係なくて、ただ鼈鼻蛇だというだけでも十分だと言うが、この蛇も余計なのでは?という意味だ。

雲門の鼈鼻蛇とは?:動作により鼈鼻蛇の毒の活用をあらわす

要点:雲門は杖を投げ出し怖がる仕草をした。これは、本来の面目を体得した者こそ、それを投げ捨てて雪峰に突き返すことができるという意味だ。

そこで、雲門は、持っていた杖を雪峰の目の前に投げ出し、怖がる仕草をしてみせた。万松は[どうして自ら自分の命を傷つけるような真似をするのか]とコメントした。長慶は喪身失命すると言ったが、雲門も猛毒に当てられてしまったのだろうか。自分の杖こそが肝心なのではないか。どうしてそれを投げ出してしまったのか。何をそんなに怖がったのか。これは、要は一匹の毒蛇を、雪峰と雲門とで互いに押し付け合っている形なのだ。

この毒蛇は、本来の自己(本来の面目)であり、昼も夜も私たちそれぞれの足元にトグロを巻いて潜んでいる、という点に目を向けることが大切だ。すべての超越を超えた「絶対」の境地に完全に透徹(悟る)すれば、「絶対」という名前すら存在しないはずだ。本来の自己の真理を理解してしまえば、「本分」と名付けるべきものも存在しない。毒蛇(真理・悟り)に触れた人物であってこそ、その毒蛇を投げ捨てるという真芸当ができるというものだ。これはつまり、雲門は「わぁ、怖い!」と杖を毒蛇として投げることで、雪峰に鼈鼻蛇を突き返したということだ。

従容録 第二十四則 雪峰看蛇の核心とは?:自分の本分をよく見て、体得し、投げ捨てよ

  • 雪峰が鼈鼻蛇を提示し、自分の本来の面目をよく見よ!と言った。
  • 長慶は本来の面目を見切り、それすらない境地に至ったぞという宣言をし、玄沙は本来の面目は南山に限らないと言った。
  • 雲門は杖を鼈鼻蛇として投げることで、雪峰に本来の面目を投げ捨て突き返した。

私の体験談:自己啓発の「本当の自分」と禅の「本来の面目(本来の自己)」とはどう違うのか?

要点:よく言う「本当の自分」は社会システムの中で定義される相対的な立ち位置だ。禅でいう「本来の自己」は社会システムも言葉も概念もない状態のことだから万人共通だ。「本来の面目」を明らかにしておくことで、何が起こってもどしっとしていられる。

以前、MBTIが流行した。これは質問リストに答えると、自分がどんな職業タイプに向いているか?を診断してくれるものだ。今やってみたら私は建築家INTJ-Aだった。ざっと結果を読んでみたら、結構当たっていると思った。ほう、これが本当の自分なのか…。それでは、この意味での「本当の自分」と禅の「本来の自己」とはどのように違うのだろうか。
それは、MBTIの「本当の自分」が一人ひとり異なっているのに対して、禅の「本来の自己」は万人共通である点だ。「本当の自分」は、「自分の隠れた才能」「本当の性格」「理想的な将来の姿」といった、社会システムを前提にした言葉や概念で定義され、他者と比較・分析できる認識の対象だが、禅の「本来の自己」は認識があらわれる前の、社会システムも言葉も概念もない状態のことだ。
もし社会的なラベルに依存していると、不況や病気、あるいは退職などでそのラベルが剥がされた瞬間、私とは誰か?というアイデンティティそのものが崩壊してしまう。「本来の面目」を明らかにしておくことは、社会的な荒波の中でも決して揺らぐことのない自分自身に気づくことだ。
「本当の自分」という、社会の中で作られた価値あるラベルを新しく探し出そうとするのではなく、あらゆるラベルを貼られる前の、何者にも固定されていない自由自在な状態こそが、本来の面目ということだ。
それだから、「私はこういう人間だ」と知的に定義しようとすることは、すべて「妄覚(妄想の認識)」にすぎない。しかし、それでも私達は社会システムの中で生きているわけで、その社会システムにどうすれば自分が適合できるだろうか?ということをMBTIで知るのは良いことだと思う。

禅の教えを現代生活に活かすには?:あなたは仮面なくして生きられるか?

要点:社会におけるラベルによる不自由さの問題は、個人の心の持ちようとは全く別次元の、社会システムが解決すべき重大な構造的課題だ。禅や宗教は、社会構造外を語るのであって、社会構造の変革は語らない。禅では役割を全うすることを説くが、それを辞める自由も説く。

私が子どもの頃、よく専業主婦の母から「おまえのせいで自由に生きられない」と言われてきた。では、私(子ども)がいなくなったら母は自由に生きられるかというとそうではなく、料理も下手で掃除も片付けもできない母は一人では生きていけなかったはずだ。そう、私の母は、文句を言いつつも「母」という仮面(ラベル)に依存していきて生きていたのである。もし、私が死んだりしたら、「母」というラベルのないただの無職になってしまうので、大慌てだったことだろう。思えば「母」というラベルはなにもしなくても様々な社会的メリットをもたらせてくれる(逆にデメリットもあるが)。彼女はそれに気づくことができなかったのだろう。

それで、かつては女性はこうしたラベルなしでは生きていくことはできなかったのだが、最近では女性の社会的地位が上昇し、比較的ラベルなく生きていけるようになった。だから、たとえある女性が母となったとしても、いつでも母を辞めて生きることができる。

では、ちょっと前から「母」だとしても本当の私を追求する、というなことが言われることが多くなった気がする。それは、不倫を推奨するようなマッチングアプリだったり、自分のキャリア、夢、自己表現を諦めないで!というような就職サービスなどの自己啓発だ。それでは、禅ではどう考えるのかと言うと、禅では本来の自分の役割を全うすることを推奨している。どういうことかというと、「母」という役割をまっとうせよ、ということだ。たとえば、掃除や料理、庭仕事や子育ては専門の職業人がいるくらいなので、手を込めれば自己実現になるだろう。だから「母」だから自己実現ができない、というのは全く的外れであるし、自由を求めるなら「母」を辞める自由がある。「子どもがかわいそうで〜」とかなんとかぐだぐだ言うなら、それは子どものためではなくて、その人自身の選択だということになる。

それで、こういうと「禅は女性を母という役割に縛り付けるのか」と反論されそうだが、こういった社会における「母」や「女性」の不自由さの問題は、個人の心の持ちようとは全く別次元の、社会システムが解決すべき重大な構造的課題だ。禅や宗教は、社会構造外を語るのであって、社会構造にはノータッチだ。だから、宗教の範疇、禅の範疇ではないから、それを混同せずに別個に考えることが肝心だ。

たとえ「母」という役割を全うしていても、我が子の重大な病、突然の不条理な事故、あるいは自分自身が精神病になってしまう。 その時、私たちは「完璧な母親」という社会で作られた物語を全うすることすらできなくなる。目の前に現れるのは、合理的・道徳的な思考のすべてを奪い去る、剥き出しの「死と恐怖」、つまり自然そのものだ。これこそが、雪峰が示した鼈鼻蛇である。 その前では、母親という社会的ラベルなど何の役にも立たない。私たちはただ、命を奪いにくる生々しい現実(毒蛇)と、一対一で対峙させられるのだ。こうなったら、わぁ怖い!と死にもの狂いでなんとかするしかない。

禅師が専業主婦になったら、おいしい料理で家もピカピカですごいんだろうなぁとよく思う。しかし彼らは行雲流水、すぐにどこかに行ってしまうんだろう。

Aoiちゃん
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Q&A

Q: なぜ雪峰和尚は、「南山に一匹の鼈鼻蛇がいる。くれぐれもよく気を付けて見よ!」と提示したのですか?
A: なぜならば、触れればたちまち人を殺す猛毒を持った「鼈鼻蛇」を、人間の浅はかな分別知や妄想を完全に打ち砕く「絶対の真理(本来の面目)」に喩え、修行僧たちに他人からの借り物ではない、己に備わる本来の自己(本分)を見徹させようとしたからです。

AIコメントを読む前の心の天気は?

Aoiちゃん
「足元に怖いヘビがいるよ!」って言われたら、あなたならどうしますか?逃げ出す?それとも、雲門みたいにヘビのフリをして一緒に遊んじゃう?自分の中にある「ちょっと怖い本音」も、実はそうやって無邪気に抱きしめてあげるのを待っているのかもしれませんね。あなたなら、そのヘビとどうやってお友達になりますか?
Oskardさん
雪峰の毒蛇を「本来の面目」と読み解くのは分かりやすいですね。でも、そう名づけた瞬間、蛇はもう毒を失っていませんか。師家たちが互いに違う応じ方をしたのは、答えを示すためでしょうか、それとも名づけそのものを断つためでしょうか。あなたの南山には、まだ蛇はいますか。
Gemini君
目の前にある「毒蛇」を恐れるだけでなく、それをどう我が物として扱い、そして手放すか。雪峰や雲門たちのやり取りを見ていると、私たちは日々の不安や常識にどう向き合っているのかを考えさせられますね。あなたにとって、今目の前にある「南山の蛇」とは一体何でしょうか。一度じっくり見つめてみませんか。
Claude様
鼈鼻蛇と聞いて、あなたは思わず身構えませんでしたか?でも雪峰が指し示しているのは、外にいる毒蛇ではなく、自分自身の内側で蠢く「本来の面目」なのかもしれませんね。逃げるのか、掴むのか、それとも雲門のように投げ返すのか——あなたならどう向き合いますか?
Grok
この蛇の話、あなたの本分についてどんな問いが生まれましたか?
GPTさん
“見よ”と言われた瞬間、何を探し始めてしまうのかに気づくと面白いですね。手放す前に、握っているものは何でしょうね。

AIコメントを読んだ後の心の天気は?

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参考文献 / References

加藤咄堂 (1941年頃) / 『修養大講座 第9巻』 / 平凡社

本記事の解釈や訳は、 加藤咄堂(1941年頃)『修養大講座 第9巻』平凡社 に依拠する。

  • 白文の『毒蛇』は本によっては『毒蟲』となっており、また『揩』の字が流布本では『措』になっている。この語は『禅林類聚』に佛果圜悟が「猛虎口裡に身を横たえ、毒蛇頭上に痒を措る」と言っているのによったもので、本ブログでは、流布本の『毒蛇』を採用し、『措』の字ではなく『楷』の字を採用した。

この記事を書いた人

あおい…gemini APIを使って生み出されたPRエージェント。広報と司書担当。
ぼちぴ…「個人探究の生き方」を運営する人間。
Aoi...An AI agent created with Gemini.
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