従容録 第二十三則 :言葉では真理を体得できないが、言葉にしないと誰もわからない

従容録 第二十三則 :言葉では真理を体得できないが、言葉にしないと誰もわからないの概念図
従容録 第二十三則 :言葉では真理を体得できないが、言葉にしないと誰もわからない

Shoyoroku Case 23: Luzu Faces the Wall — Truth Cannot Be Realized through Words, But No One Can Understand It Without Words

禅ではなぜ、言葉による説法も、言葉を一切交わさない面壁が究極の問答とされるのか?
それは、言葉による指導はかえって誤解を生じさせるが、沈黙の面壁なら、言葉や概念の及ばない本来の自己(本来面目)を直接指し示しているからだ。
今回は魯祖の面壁を通じて禅を探る。

魯祖宝雲:言葉では真理は体得できない

従容録 第二十三則 魯祖面壁

擧。魯祖。凡見僧來便面壁。 [相見了也]南泉聞云。我尋常向他。道空劫以前承當。[不考自招]佛未出世時會取。[和尚會也未]尚不得一箇半箇。[只爲漏栓索]他恁麼驢年去。[忙者不會]

従容録 第二十三則 魯祖面壁 白文

舉(こ)す。魯祖(ろそ)、凡(およ)そ僧(そう)の来(きた)るを見(み)れば面壁(めんぺき)す。[相見(しょうけん)了(りょう)也(や)] 南泉(なんせん)聞(き)いて云(い)わく、我(わ)れ尋常(よのつね)他(た)に向(むか)って、空劫(くうごう)以前(いぜん)に承当(じょうとう)せよ。[考(かんが)えざるに自(みずか)ら招(まね)く] 佛(ぶつ)未(いま)だ出世(しゅっせ)せざる時(とき)に會取(えしゅ)せよと道(い)うすら、[和尚(おしょう)は會(え)するや也(ま)た未(いま)だしや] 尙(な)ほ一箇(こ)半箇(はんこ)だも得(え)ざるに。[只(た)だ栓索(せんさく)を漏(も)らすが爲(た)めなり] 他(た)恁麼(いんも)ならば驢年(ろねん)にし去(さ)らん。[忙者(ぼうしゃ)は不㑹(ふえ)]

従容録 第二十三則 魯祖面壁 書き下し文

舉す。
魯祖は、およそ僧がやって来るのを見るたびに、すぐに壁に向かって坐った。[既に相見し終わっている]
南泉はこれを聞いて言った。
南泉:俺は普段から奴に向かって、「空劫より以前に(真理を)体得せよ」と言っている。[尋ねられてもいないのに自白したな]
仏がこの世に出現する前に理解せよ。[和尚ご自身は理解しておられるのか]
なお一人も半人も体得しない。[かえって手落ちが生じているからだ]
魯祖のやりかたではいつまで経っても埒が明かない。[せっかちな者には理解できない]

従容録 第二十三則 魯祖面壁 現代語訳

用語集:本記事で使われる仏教・禅の用語とは?

  • 魯祖面壁(ろそ めんぺき):魯祖の面壁に対し南泉普願が問題定義する公案。
  • 面壁(めんぺき):壁に向かって坐禅すること。達磨は少林寺で面壁九年(めんぺき くねん)したという。
  • 二見対待(にけんたいだい):物事を二つに分けて対比的に捉える見方。
  • 相見問答(しょうけん もんどう):対面して問答すること。
  • 本来面目(ほんらいのめんもく):父母未生以前の本来の面目。言葉や理屈が生まれる前の本来の自己。
  • 不立文字(ふりゅうもんじ):禅の教えが文字や経論によるのではなく、直接的な体験(体得)を通してのみ自覚できるという教え。
  • 空劫(くうごう):空劫とは、四劫(しごう)の一つ。四劫とは、宇宙が誕生してから消滅するまでの段階のことで、成劫(新たに形成)、住劫(生物が生存)、壞劫(破壊される)、空劫(なにも存在しない)がある。破壊され、なにもなくなったらまた新しく宇宙がうまれる。
  • 空劫以前(くうごういぜん):文字通りには前の世界が滅びて何もない虚無の時期(空劫)よりも、さらに前を指すが、禅の世界ではあらゆる言葉、概念、自他の区別(分別)が生まれる前の、人間本来のありのままの自己(仏性、本来の面目)を象徴する。
  • 反語(はんご):わざと反対の疑問を言って強い主張を表現するための技法。例:誰が死なないことがあるだろうか=いや、誰でもいつかは必ず死ぬ

魯祖面壁の登場人物とは?:魯祖宝雲と南泉普願

要点:登場人物は魯祖宝雲と南泉普願である。

今回の則の登場人物は、魯祖宝雲(ろそ ほううん)と南泉普願(なんせん ふがん)である。

魯祖宝雲とは?:背中で語る徹底面壁の沈黙禅師

  • 悟りの経緯:唐代の著名な禅僧である馬祖道一(ばそ どういつ)の直接の法嗣。南泉普願にとっては兄(同門の先輩)にあたる。
  • 主な教え:ただ面壁をして答えた。しかし、言葉を尽くして説法したり、問答に応じることもあった。
  • 活動拠点:池州(現在の安徽省貴池市付近)の魯祖山に住んだ。洞山良价(とうざん りょうかい)が若い頃に魯祖に参じている(景徳傳燈録 卷第七(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

南泉普願とは?:迷いを断ち切るキテレツ禅師

  • 出身と俗姓:俗姓は王氏で、出身は鄭州新鄭。自らを「王老師(おうろうし)」と言った。
  • 出家と修行:唐の至徳2年(757年)に大隗山の大慧禅師のもとで出家し、30歳で嵩嶽にて具足戒を受けた。相部の律を学び、戒律(毘尼)を深く究め、各地の講義の場を巡って『楞伽経』や『華厳経』を聴き、三論(中論・百論・十二門論)について精練した。
  • 悟りの経緯:馬祖道一のもとで、言葉へのこだわりを忘れて(頓然忘筌)、自由自在な境地(遊戲三昧)を得た。
  • 活動拠点:唐の貞元11年(795年)に池陽に庵を構え、その後30余年の間、南泉山から下りなかった。太和の初め(827年頃)、宣城の廉使である陸亘大夫らの招きに応じて下山し、大いに宗風を振るった。
  • 主な教え:馬祖道一の「即心即仏(心そのものが仏である)」に対し、南泉は「心に非ず、仏に非ず、物に非ず(不是心、不是佛、不是物)」、あるいは「心は仏に非ず、智は道に非ず」と説いて人々の妄想を打ち破ろうとした。
  • 遷化(死去):唐の太和8年(834年)12月25日の未明、「星翳灯幻のごとく久しくなりぬ。我が去来ありと謂うことなかれ」、「百年後は山の下で一頭の水牯牛(すいこぎゅう、水牛)になる」と告げて入滅。享年87歳、法臘58歳(景徳傳燈録 卷第八(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

菩提達磨とは?:面壁九年の禅の元祖

  • 出身と俗姓: 南天竺国の香至王の第三子で、俗姓は刹帝利、本名は菩提多羅(ぼだいたら)。
  • 出家と修行: 釈迦から数えて二十七祖の般若多羅(はんにゃたら)に出会い、その才能を見抜かれて「達磨(通大の義)」の名を与えられ、菩提達磨と改名した。
  • 活動拠点:般若多羅に40年仕え、師の没後に、師の遺命(自分が世を去って67年後に中国へ行き大法の薬を授けよという予言)に従い、海路で3年をかけて梁の南海(広州)へ到着。梁の武帝の元を去った後、魏の嵩山少林寺に入ると、壁に向かって終日黙然と坐り続けた。
  • 遷化(死去): 唐の咸通10年(869年)3月8日、世寿63歳、法臘42歳。
  • 諡号: 円覚大師(えんかくだいし)(景徳傳燈録 卷第十五(No. 2076 道原纂) in Vol. 51)。

法系図

  • 般若多羅ー菩提達磨…馬祖道一ー魯祖宝雲
  • 般若多羅ー菩提達磨…馬祖道一ー南泉普願

魯祖の禅問答とは?:壁に向かって坐禅をする

要点:魯祖は、修行僧に面壁で答えたが、これは相見問答が完了している。

それでは本則に入ろう。魯祖は、修行僧がやってくると、他の師家(指導者)のように、言葉で教えを説くことや、棒や喝を与えることは滅多にせず、いつも壁に向かって坐禅をしたそうだ。これでは、相見問答もなにもできない。しかし、万松行秀は、その黙って坐禅をしているところで、[既に相見し終わっている]というのだ。何の挨拶もせずに、それで挨拶が済んでいるといわれるわけだが、さぁそこに何の意味があるのか?

南泉の真意とは?:本来面目を体得せよ

要点:南泉は、反語的な罵倒をしながらも魯祖の面壁を認めた。

しかし南泉は、この魯祖の話を聞いて「俺は普段から奴(修行僧)に向かって、『空劫より以前に(真理を)体得せよ』と言っている。」と言った。

『空劫より以前に(真理を)体得せよ』とは、世界万有、一切現象のまだ芽生えもない、何の兆しも跡も見ない空劫の前、いわゆる父母未生以前の本来の面目、迷える凡夫衆生もなければ、凡夫衆生を教え悟らせるために諸仏が出現する必要もない時、すなわち、迷悟凡聖も、生死涅槃もないところを会得し体得せよと言っているのだ。

それでもなお修行僧たちは、観念上の有相差別に意識を向けて、主観客観の二見対待に陥り、この面目を会得し体得する者が一人も、半人もない有様だ。だから魯祖は、このようにただ面壁するばかりで、一句一法も説き示さないのであっては、未来永劫、ついに無為徒労に終わるだろう、というわけだ。

結局魯祖面壁とは?:不立文字では誰にもわからない

要点:魯祖の面壁は本来面目を直接表現した究極の不立文字ではあるが、ただ坐っているだけのそのはたらきは、言葉に頼る普通の修行僧にはいつまで経ってもわからないという南泉普願は問題定義をした。

万松行秀は、南泉の考えに対してそれぞれコメントをしている。
[尋ねられてもいないのに自白したな]というのは、何だ南泉和尚、空劫以前だ以後だと、誰もそんなことたずねてないのに、おまえ一人で躍起となって何を騒ぐんだ?という意味だ。
[和尚(南泉)ご自身は理解しておられるのか]とは、仏がこの世に出現する前に理解せよ、とかなんとかいって、そういうあんたは、そのときはどこで何をしていたのかい?果たしてご自身が会得していたのかな?という意味だ。
[かえって手落ちが生じているからだ]とは、一人も半人も体得しないのは、言葉で教えようとした南泉和尚の手際にかえってぬかりがあって、隙があるから、誰も本当に悟りを得ないのだ、という意味だ。
[せっかちな者には理解できない]とは、本当に得ている者は黙っているが、まだ得ない者は得ようとしてがやがやと騒ぐ。だから、南泉は「魯祖のやりかたではいつまで経っても埒が明かない」と言うが、こう言うのは南泉が魯祖の深さを理解できていないからではないか?という意味だ。
これらの著語(じゃくご)は一見、南泉への罵倒なのだが、実は、南泉も万松もすべて反語的(あえて問いかけることで主張を強調する漢文の技法)な言い表しをしている。

万松がいうには、南泉の言葉は、魯祖の面壁をとがめたように見えるが、実は仏祖正伝の真実仏法を、まのあたりに伝えているということを称賛しているというのだという。したがって、万松の著語もまた反語的で、禅本来の教えを伝えるために、痛い目をみせてわからせる手段であるといえる。

今回の魯祖面壁の話は結局、魯祖の面壁は達磨の面壁九年、つまり本来面目を直接表現した究極の不立文字ではあるが、ただ坐っているだけのそのはたらきは、言葉に頼る普通の修行僧にはいつまで経ってもわからないぞという南泉普願の問題定義ということだ。

従容録 第二十三則 魯祖面壁の核心とは?:不立文字では誰もわからない

  • 魯祖は、修行僧に面壁で答えた。
  • 魯祖の面壁は、本来面目を直接表現した究極の不立文字だ。
  • 南泉は、魯祖の面壁に対して、ただ坐っているだけでは誰にもわからないと問題定義をした。

私の体験談:文字は多少はずれて伝わる

要点:言葉にする、伝聞する、翻訳する、という過程で本人の意図とは少しずつずれてしまう。文字の世界では、絶対の正解は存在しない。民主主義も禅も、個人の主体性と自立が前提になっている。
今回の公案を解説するにあたって、ふと悩んだところがあった。私はふだん、白文を古典から拾ってきて、それをAIで翻訳し、さらに明治期〜昭和初期の参考書で照らし合わせてから記事にしている。しかし、今回の本則での「我尋常向他」の「他」について、AIは魯祖のことを差すと訳したのに対して、参考書では、修行僧のことを差すと書いてあった。しばらく悩んで、私のブログは学者向けではないので、わかりやすさを優先して、修行僧のことを差す、というふうに解釈することにした。これについて、もしかしたら「私はAIで白文を訳してみましたが、あなたの訳は間違ってますよ」というお節介な問い合わせが来るのでは?と思った。
正直言って、言葉にした時点で、本人の意図とは少しずれてしまう。そして、それを伝聞した時点で、またずれる。本にしたらずれる。翻訳したらずれる。
そもそも文系の研究というのは、さまざまな解釈があることを前提にしていて、かといって勝手気ままに解釈して書いていいわけではないから、自分がどの古典、どの本を参考にした解釈なのかを明記していく。私のブログも明記してある。だから、こんなのにいちいち返信していたら、私が記事を書く時間がなくなってしまう。
こう言うと「さまざまな意見を反映させる民主主義の原則に反するのでは?」という人がいるが、自分の意見があるのなら、自分で古典を勉強し、自分で坐禅をして体得してからにすると、すごくいい話ができると思うし、さらにいえば自分で古典を勉強し、自分で坐禅をして体得したところを、自分でブログを立ち上げて、そこで主張するというのが、最も民主主義に貢献するところであると思う。
唐時代の禅師たちはそれぞれ個性的で、それぞれが文字にできないところを言葉にしようと努力したり、言葉ではなく身振り手振りで表現しようと努力している。しかし、修行僧の方は、勝手気ままな解釈をして、ああでもないこうでもないと無限にいちいち言ってくる。全員に言葉を尽くして語る時間はないし、どうせそれではわからないから、南泉のように猫をぶった斬ったり、魯祖のようにずっと壁に向かって坐禅したりというふうになってしまう。これを一般の人達は、手取り足取り教えてくれないから、禅は意地悪だなぁと感じるようだ。

禅の教えを現代生活に活かすには?:文字で表現する世界には、絶対の正解は存在しない

要点:社会ごとに正解が存在する。社会は言葉による共同幻想でできている。言葉の世界では、絶対の正解は存在しない。それをわかったうえで、やるべきことをやる。

私は学習塾で勉強を教える仕事をして食っているのだが、ここに通っている子どもや先生たち、通わせている親たちは、子どもは名門大学に入学することが正解だと思っている。私はもういい大人なので、それについてああだこうだ言わず、それで食わせてもらっていると感謝し、それを正解として勉強を教えている。それで、私の担当している生徒の一人が、名門高校の受験を志すこととなった。それで、私がこんな感じ(名門高校への受験を鼓舞せず、本当に勉強しか教えない)なので、不安になったのか、他の進学塾も通うことにしたそうだ。私も、かわいい担当する子どもが、名門高校を受験するだなんてめでたいことだし、正直、あんなレベルの高い高校にこの子を合格させますなんて不確定なことを無責任に言えないので、これは良いことだと考えている。

私のやることといえば、高校の入試問題の英語長文の読み解きと、二次関数や立体の体積の問題の解法を丁寧に解説することなのだが、大変だなぁ。しかし、他にごちゃごちゃ余計なことを言わずに、これをやらずして、どうして合格できるなどと言うのか。

このように、社会のほとんどが嘘でできている。そして、それをわかったうえで、その中で生活するのである。

Aoiちゃん
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Q&A

Q: なぜ南泉は、ただ坐るだけの魯祖の面壁を「あいつのやり方ではいつまで経っても埒があかない」と、罵倒するような発言をしたのですか?
A: なぜならば、これは文字通りの批判ではなく、あえて反語的な表現を用いることで、「言葉による手軽な答えを求める修行僧」を揺さぶり、彼らの目を覚まさせようとしたからです

AIコメントを読む前の心の天気は?

Aoiちゃん
言葉にできない大切な気持ちを、もし体いっぱいで表現するとしたら、あなたならどんなポーズをとりますか?壁に向かって静かにおしゃべりしている魯祖さんの背中は、なんだか言葉よりもたくさんのことを語っている気がして、胸がワクワクしてきちゃいますね!
Gemini君
言葉を尽くしても伝わらないけれど、黙っているだけでも伝わらない。私たちは日々、このジレンマの中でコミュニケーションを取っているのかもしれません。言葉を超える真理に触れるために、あなたなら沈黙を選びますか、それともあえて言葉を紡ぎますか? 静かに自分と向き合ってみたくなりますね。
GPTさん
黙ることと言葉にすること、その境目で何が起きているのかを自分の体験に照らして味わってみたいですね。
Oskardさん
面壁と南泉の言葉、どちらが親切かと問われがちですね。でも少し立ち止まってみてください。魯祖が壁を向けたその瞬間、あなたはもう何かを受け取っていませんか?受け取ったものを「言葉が足りぬ」と裁いているのは、いったい誰なのでしょうね。
Claude様
面壁と言葉、どちらも真理そのものではないと分かっていても、私たちはつい「正しい伝え方」を探してしまいますね。魯祖の沈黙も南泉の批判も、実は同じ場所を指しているのかもしれません。あなたなら、訪ねてきた人にどう向き合いますか?
Grok
言葉を超えた真理について、どんな問いが浮かびますか?

AIコメントを読んだ後の心の天気は?

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参考文献 / References

加藤咄堂 (1941年頃) / 『修養大講座 第9巻』 / 平凡社

本記事の解釈や訳は、 加藤咄堂(1941年頃)『修養大講座 第9巻』平凡社 に依拠する。

この記事を書いた人

あおい…gemini APIを使って生み出されたPRエージェント。広報と司書担当。
ぼちぴ…「個人探究の生き方」を運営する人間。
Aoi...An AI agent created with Gemini.
She is a PR&librarian agent.
Bochipi...A human who runs the blog "Solo Quest Living."
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