釈迦牟尼と文殊菩薩:言葉以外の教えとはなにか?
従容録 第一則 世尊陞座
ある日、世尊が法座に登られた。
すると、文殊菩薩が前に進み、如法に槌(つい)を打って言った。
文殊:よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。その言葉を聞くと、世尊はすぐに座から降りられた。
従容録 第一則 世尊陞座
あらまし:釈迦牟尼と文殊菩薩
要点:登場人物は釈迦牟尼と文殊菩薩である。
今回の登場人物は、釈迦牟尼と文殊菩薩。釈迦は苦行の末、真理を悟り覚者となった。文殊菩薩は、華厳三聖の一で、行動を司る普賢菩薩とともに釈迦に仕える、智慧を司る菩薩だ。この「世尊」というのは釈迦の敬称のことだ。
禅の作法:文殊菩薩の行動の真意
要点:文殊菩薩は、釈迦が高座に座ったのにもかかわらず、「よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。」と言って終わらせてしまった。
それでは本題に入ろう。ある日、釈迦が法座にのぼられたので、文殊菩薩が槌(つい)を打った。今では法座は立派な椅子なのだが、昔は曲がった木で作った簡素なものだった。禅宗の寺院では、いまでも槌砧(ついちん)という木でできた八角形の鳴らしものでいろいろな合図をしている。昔の禅の寺では、住職がお話をする前に槌を打って、「法の説かれる場に集う立派な修行者たちよ、今こそ真理の根本を観じなさい。」といい、お話が終わったらまた槌を打って「よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。」と言っていたそうだ。この「法王」とは、悟りを開いた者、という意味だ。
そこで、文殊菩薩は槌を打つ係を担い、正しく作法をおこなった。この時、「法の説かれる場に集う立派な修行者たちよ、今こそ真理の根本を観じなさい。」と言うべきだったそれなのに、釈迦が高座に座ったのにもかかわらず、「よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。」と言って終わらせてしまった。これは、さては文殊菩薩がやらかしたのだろうか?
いや、そうではない。文殊は、釈迦の言葉以外の説法を聴くことができたから、終わらせたのだ。これはどういったことを表現しているのだろうか?
柳は緑、花は紅のように:日常に遍満する真理
要点:文殊菩薩は釈迦牟尼の無言の説法を聴くことができた
これは、柳は緑、花は紅、日は東から昇り、西へ沈むこと、そのままが真理のように、釈迦牟尼の存在そのままが真理であることを意味している。また、釈迦牟尼が座ったり立ち上がったりという行動は、地球の傾きが太陽を高く昇らせ、柔らかな光が大地を包み、その光に目覚めた梅の木が、静かに花をほころばせて春の景色を作るという真理のはたらきを表現している。他の修行者達は、説法は耳で聞くものだと思いこんでいるから、無言の説法を受け取ることができなかった。しかし、文殊菩薩は受け取ることができた。それは、釈迦が法座に上がって、しーんとして、なにか威厳のようなものを感じ取るなど、言葉以外のことを感じ取ったからだ。
ニュートンの観察のように:真理を観るための集中力
要点:ニュートンはよく注意して真理を観ることができた。
このように、存在としての威厳や、きびきびとした行動から、人は何かを感じ取るものである。ところが、それだけでは足りず、日常から伝える側も受け取る側も集中力を養う必要がある。ある人が、ニュートンに「木から林檎が落ちるのを見て、引力の法則を発見したのはすごいですね」というと、ニュートンは「それはそうかもれないが、注意力が大切だよ」と答えたという。つまり、真理は身の周りにあたりまえにあるものであり、よく観ることが大切なのだ。
月を指す指のように:禅宗における文字と悟り
要点:真理の道は文字以外にあり、今も昔もどこにでも存在していて、あなたも悟ることができる。経典や古則を使って文字に頼って真理とは何かを知り、坐禅の修業によって真理を体得するということの両方が大切だ。
仏教といえば、多くの人は、釈迦によって発明された宗教のように考えるが、禅でいう仏法とは、この大宇宙に遍満している真理への道を指している。たまたま釈迦によってそれが顕示されたに過ぎないから、釈迦の前にも悟った人はいることになるし、仏法の道は、今も昔もどこにでも存在していて、あなたも悟ることができる。いまでは、日本の仏教は、十三宗に分かれているが、禅宗を除いたほかは全部経典を拠り所としているのに対し、禅宗は、経典がない。禅宗の考えでは、釈迦の四十九年間の説法も、五千七百の経典も、結局は真理の月を指す指にすぎない。それだから、指にこだわっていたのでは、月がみえないように、真理の道は文字以外にあるということになる。
だからといって、一切の文字も使わないし、経典を度外視するというわけではない。菩提達磨以来、特に坐禅修行を中心に行うようになったから、自然と世間から禅宗とよばれるようになったのだが、達磨のあと、祖師(達磨ら先師)の語録などを古則・公案として工夫するようになって、坐禅(文字以外)と看話(かんな、公案に取り組むこと、文字)の両方に取り組むようになったし、禅師のなかには経典の参究もする者もいる。つまりは、経典や古則を使って文字に頼って真理とは何かを知り、坐禅の修業によって真理を体得するということの両方が大切だということだ。
核心
- 禅とは言葉を超えた言葉以外の教えである。
- 言葉に頼り切ってはいけない。
- 態度や、声や行動を注意深く観ることが大切である。
私の体験談:親や先生は子どもに依存してはならない
要点:私は「自分と向き合う」という態度で示す。親や先生であるという社会的地位に依存してはいけない。
私は子どもに教える仕事をしていて、とびきり優秀な子を除いては、手を変え品を変え指導しなければならない。指導といっても、怖い顔をしたり脅かして指導してはいけないから、私は「自分と向き合う」という態度で示している。
どういうことかというと、私は勉強を教えるという職分に集中し、自分の話や自分の勝手な考えをできるだけ排除するようつとめて、必要最低限にし、かつ相手の子どもに合わせて教えている。
いまのところ、すべての子どもが本当に静かに私の話を聞いてくれている。これは、今の子どもが従順でおとなしいこともあると思われるが、私の話以外の声、態度、行動により、何かを感じ取ってくれているからだと思っている。
さて、人は社会的価値、つまり社会的地位に依存して生きている。「俺は親である」「俺は先生である」…こうした社会的地位に依存して、思い込んでしまう。しかし、それに頼りすぎてはいないだろうか。
「俺は親として先生として子どもを教育すべきである」、「どうして俺は親なのに、先生なのに尊敬されないのか、言うことを聞いてくれないのか」という疑問は、親だ先生だという、社会的地位への依存を示唆している。
現代の生活に活かす禅のヒント:態度や声や行動によく注意すること
要点:言葉以外の部分に特化したのが禅宗だ話の内容や価値観ばかりに注目しないで、話以外の態度や声や行動などによく注意をすることが大切だ。
仏法の道は、今も昔もどこにでも存在していて、あなたも悟ることができる。仏法の道は、釈迦の言葉として語られる部分もあるし、言葉以外の部分もある。言葉以外の部分に特化したのが禅宗だ。日常生活でも、話をすることでやっと相手に伝わると考えるが、態度、声、行動など、話以外にも相手に伝える方法はある。また、人は社会的価値観に依存して生きている。
このように、話の内容や価値観ばかりに注目しないで、話以外の態度や声や行動などによく注意をすることが大切だ。
Q&A
- Q: どうしたら言葉以外に伝えることができますか?
- A: 黙ることです。
私たちは普段、余計なことをしゃべりすぎています。普段から発する言葉に気をつけて生活すれば、言葉そのものが磨かれます。また、無駄なおしゃべりをしない分、心に余裕ができて家事や仕事も早く片付くようになり、あなたの「行動」そのものが輝きを増して、相手に伝わるようになります。
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