本則
白文
舉。仰山問僧。甚處人。[閉門刷會]僧云。幽州人。[公驗明白]山云。汝思彼中麼。[恰待忘了]僧云。常思。[熟處難忘]山云。能思是心。所思是境。[元來更立能所]彼中山河大地樓臺殿閣人畜等物。反思思底心。還有許多般麼。[仁者自生分別]僧云。某甲到這裏總不見有。[猶有這箇]山云。信位即是。人位未是。[庭前殘雪日輪消室内紅塵遣誰掃]僧云。和尙莫別有指示否。[便恁麼來]山云。別有別無即不中。[射透兩重關]據汝見處。只得一玄。[已得舡中月]得坐被衣向後自看。[更添帆上風]
従容録 第三十二則 仰山心境 白文
書き下し文
挙(こ)す。仰(きょう)山(ざん)、僧(そう)に問(と)ふ、甚處(いづれ)の人(ひと)ぞ。〔門(もん)を閉(と)じて刷(せつ)會(え)す〕 僧(そう)云(い)わく、幽(ゆう)州(しゅう)の人(ひと)。〔公験(こうけん)明白(めいはく)〕 山(さん)云(い)わく、汝(なんじ)彼(か)の中(なか)を思(おも)う麼(や)。〔恰(あたか)も忘了(ぼうりょう)を待(ま)つ〕 僧(そう)云(い)わく、常(つね)に思(おも)えり。〔熟処(じゅくしょ)は忘(ぼう)じ難(がた)し〕 山(さん)云(い)わく、能思(のうし)は是(こ)れ心(しん)、所思(しょし)は是(こ)れ境(きょう)。〔元來(がんらい)なるに、更(さら)に脳所(のうしょ)を立(た)つ〕彼(か)の中(なか)には、山河(さんが)、大地(だいち)、楼台(ろうだい)、殿閣(でんかく)、人畜(にんちく)等(とう)の物(もの)あり。思(おも)う底(てい)の心(しん)を反思(はんし)せよ。還(かえ)って許多般(そこばくはん)有(あ)り麼(や)。〔仁者(にんじゃ)自(みずか)ら分別(ぶんべつ)を生(しょう)ずるなり〕 僧(そう)云(い)わく、某甲(それがし)這裏(しゃり)に到(いた)って総(そう)に有(あ)ることを見(み)ず。〔猶(な)お這箇(しゃこ)有(あ)り〕 山(さん)云(い)わく、信位(しんい)は即(すなわ)ち是(ぜ)、人位(にんい)は未(いま)だ是(ぜ)ならず。〔庭前(ていぜん)の残雪(ざんせつ)は日輪(にちりん)に消(しょう)すべし。室内(しつない)の紅塵(こうじん)は誰(た)れを遣(し)てか掃(はら)わしめん〕 僧(そう)云(い)わく、和尚(おしょう)別(べつ)に指示(しじ)すること有(あ)ること莫(な)しや否(いな)や。〔便(すなわ)ち恁麼(いんも)にし来(きた)る〕 山(さん)云(い)わく、別(べつ)に有(あ)り別(べつ)に無(な)しというは即(すなわ)ち中(あた)らず。〔射透(しゃとう)す兩重(りょうちょう)の關(かん)〕 汝(なんじ)が見處(けんじょ)に據(よ)らば只(ただ)一玄(いちげん)を得(え)んのみ。〔已(すで)に舡中(こうちゅう)の月(つき)を得(え)たり〕 得坐(とくざ)被衣(ひえ)向後(こうご)自(みずか)ら看(み)よ。〔更(さら)に帆上(はんじょう)の風(かぜ)を添(そ)う〕
従容録 第三十二則 仰山心境 書き下し文
現代語訳
挙す。仰山が僧に問う。
仰山:どこの人か。〔門を閉ざして知解を払い清めさせる〕
僧:幽州の人です。〔身分証明が明白である〕
仰山:お前はあの地を思っているか。〔ちょうど忘れようとしていたところなのに〕
僧:常に思っています。〔慣れ親しんだ場所は忘れがたい〕
仰山:思う主体は心であり、思われる対象は環境である。〔もともと一つのものに、改めて主体と対象の対立を立てている〕
仰山:あの地にある山河、大地、楼台、殿閣、人間や家畜などの物事について、ひるがえってその思う心そのものを思ってみよ。果たしてその心の中に、それほど多くの種類のものがあるか。〔あなた自身が勝手に分別を生じさせている〕
僧:私はここに至っては、まったく何も存在するのが見られません。〔まだ『これ』が残っている〕
仰山:信位ならばその通りだが、人位としてはまだできていない。〔庭の前の残雪は太陽の光で消えるが、部屋の中の赤い塵は誰に払わせるというのか〕
僧:和尚、ほかに何か別のお示しはありませんか。〔またすぐにそうやって来る〕
仰山:別にあるとか、別にないとか言うのは当たっていない。〔二重の関所を射抜いて突き抜けた〕
仰山:お前の見解によれば、ただ一つの玄妙を得ただけだ。〔すでに船の中に映る月を得ている〕
仰山:安座して衣をまとい、これから先、自ら観察してみよ。〔さらに帆にかかる風を添えた〕
従容録 第三十二則 仰山心境 現代語訳
基礎知識
時系列
- 従容録 第十五則 仰山挿鍬 835年〜845年頃
- 従容録 第二十六則 仰山指雪 855年〜865年頃
- 従容録 第三十二則 仰山心境 870年〜880年頃
- 従容録 1223年頃
重要用語集
従容録(しょうようろく):宏智正覚が編纂した百則の公案集に、万松行秀が『碧巌録』の体制にならい、示衆、著語、評唱を加えたもの。
公案(こうあん):禅の修行者に与える先人の悟道機縁の問題である。
向上(こうじょう):すべての区別や言語による分別を超越した、絶対的な平等の世界(悟りの境地)そのもののこと。
向下(こうげ):絶対的な平等の境地(向上)にとどまることなく、再び現実の相対差別(個々の違いや善悪がある日常世界)へと下り立ち、自らの悟りの智慧を具体的な生活の営みのために自在に発揮すること。
二見対待(にけんたいだい):物事を「有」と「無」、「善」と「悪」、「聖」と「凡」といった二つの対立する視点や概念(二見)に分け、相相対するもの(対待)として捉える二元論的な認識態度のこと。
解説
仰山の米価問答とは?:高尚的な境地より、いま・ここの現実を問う
今回の問答は、長ったらしく理屈めいた問答だ。この問答の前に、一問答があるので紹介しておこう。
仰山が、来訪の僧に「どこから来たか」と問うと、僧は「幽州から来た」と答えた。そこでさらに仰山は「俺はちょうど幽州のたよりを聞きたいと思っていたところだ。幽州では、米の価格は今いくらか」と聞き返した。その僧は「私は市場へ入り込んだけれども、通ってそこの橋を踏み折ってしまいましたよ」と答えたので、仰山はそこで米価問答を打ち切ってしまった。
万松は、まず本則の公案より、この米価問答について参究すべきだと言っている。
- 市場とは、世俗の利害や対立の渦巻く場。そこを通り抜けたというのは、「自分は世俗の真っ只中に身を置きながらも、何ものにも捉われず超然としてやって来た」という気取った表現だ。
- 橋とは、世俗と離俗とに渡されている通路。それを踏み折ったというのは、「自分は迷いと悟り、聖と凡を渡す往還の道を根こそぎ断ち切った」という向上の機鋒(絶待の境地)の誇示だ。
本来、米価問答というのは、いま・ここに立ち現れている関係性を問うものだったが、僧が得意に観念的な大言壮語に陥っているので、仰山は相手にせず問答を打ち切ってしまった。
この米価問答は、第五則青源米価にも似ている問答があるから照らし合わせてみるのもおもしろい。
仰山心境の主題とは?:観念にとらわれる私
それでは本則に入ろう。仰山が僧に「どこの人か」と問う。万松は、〔門を閉ざして知解を払い清めさせる〕とコメントした。このコメントは、昔、官僚が帳簿を検査するのに、役人たちが一室に戸を閉ざして立ちこもることをたとえている。禅において「どこから来たのか」という問いは単なる世間話ではなくて、その人が仏法に対してどういう心構えなのかを調べる問いだ。仰山が念入りに僧の心構えを調べている様子を表現している。
僧はなんの小細工もなく「幽州の人です」と答えた。万松は〔身分証明が明白である〕、官僚の調べに正直明白だなぁとコメントした。
仰山は続けて「お前はあの地を思っているか。」と問う。万松は〔ちょうど忘れようとしていたところなのに〕とつっこみ。これは、仰山の問いにひっかかるなよ、という助言だ。仰山のいうあの地というのは、故郷の幽州のことではない。はたして龍の住処か、鶴の遊びどころか…修行者がついつい安住してしまう観念の境地のことをいっている。
僧は「常に思っています。」と、万松の助言虚しく正直に答えた。万松もそうだろうよ、〔慣れ親しんだ場所は忘れがたい〕とコメント。人は、誰しもが観念にとらわれており、そこに行きたいと思っている。
ここで、この仰山心境の主題は、「観念にとらわれる私」である。
仰山のひっかけとは?:本来一つである心に、わざと主客の罠を仕掛ける
仰山は「思う主体は心であり、思われる対象は環境である。」といった。思う私は主観であり、思われるものは客観、すなわち『あれ』である。さぁ話が面倒になった。万松は〔もともと一つのものに、改めて主体と対象の対立を立てている〕とコメントした。本来は主観も客観ももともと一つではないか?なぜ主観と客観を対立させるのか?という意味だ。
仰山はなお続けて「あの地にある山河、大地、楼台、殿閣、人間や家畜などの物事について、ひるがえってその思う心そのものを思ってみよ。果たしてその心の中に、それほど多くの種類のものがあるか。」という。万松は〔あなた自身が勝手に分別を生じさせている〕と、仰山は山河、大地、楼台、殿閣、人間や家畜などの物事といろいろ分別をしているが、本来は差別対立なんてあるものかとやっつけた。
もちろん仰山が本来これを説いているわけではない。これは、あえて主客を対立させ、対象を具体的に列挙して見せることで、僧を二見対待への迷いへと誘い込む、ひっかけ問題なのだ。
万松の指摘とは?:まだ『これ』が残っている
仰山のひっかけ問題に対して、僧は「私はここに至っては、まったく何も存在するのが見られません。」と答えた。私はいろいろと考えてみたけれど、そんな山河、大地、楼台、殿閣、人間や家畜などの物事は何もありませんよ、という意味だ。僧は、一見すると、みごとに仰山の罠にひっかからなかった。しかし、万松に〔まだ『これ』が残っている〕と咎められている。『これ』とは、思う私のことだ。
なにもない、見当たらないというが、ではそうやって、見当たらないなぁと思っているお前自身は一体どこへいったのか?対象としての事物(客観)がきれいに消え去ったつもりでも、なにもないと見ている私(主観の根)だけが依然としてちゃんと残っているではないか、というわけだ。
僧の力量の現状とは?:向上はなかなかだが向上向下一如はまだまだ
僧の「私はここに至っては、まったく何も存在するのが見られません。」という答えに対して、仰山は「信位ならばその通りだが、人位としてはまだできていない。」と言った。この信位とか人位というのは『金剛三昧経』にでてくる言葉で、いろいろな解釈がある(金剛三昧經 序品第一)。ここでは高田道見の解説を採用する。
- 信位:向上一路を極め、主客の対立や一切の事物を空じて「絶対無」の境地に達すること。
- 人位:その空の境地に溺れることなく、再び生々しい現実・日常の世界へ戻ってきて、ありのままに生きてはたらくこと(向上向下一如の境地)。
万松は〔庭の前の残雪は太陽の光で消えるが、部屋の中の赤い塵は誰に払わせるというのか〕とコメントした。この言葉は洛浦元安(夾山善会の弟子)の語をそのまま借用したものだ。室外の残雪(妄想)はやがて自然に消え去るが、室内の赤い塵(日常の我執の残り)を一体誰に払わせるつもりなのか?という意味だ。
つまりは、僧は、向上の修行はなかなかだが、向上向下一如の修行はまだまだだ、という状況だ。
仰山の禅風とは?:慈悲心の深い言葉による親切丁寧な指導
僧は、仰山から向上向下一如の修行のアドバイスをもらって、「和尚、ほかに何か別のお示しはありませんか。」と問う。〔またすぐにそうやって来る〕と、万松は冷笑した。
仰山は「別にあるとか、別にないとか言うのは当たっていない。」と、あるとかないとかは真実ではないという。万松は〔二重の関所を射抜いて突き抜けた〕と、痛快にこのあるとかないの二見対待を射抜いたぞ、とコメント。
しかし、仰山は僧のために「お前の見解によれば、ただ一つの玄妙を得ただけだ。」と言った。これはこの僧が向上の境地を確かに会得していると認めている。万松も〔すでに船の中に映る月を得ている〕、この僧はすでに向上一玄、万象獨露の境地に突き進んでいるぞ、と認めている。それで、舟を浮かべて名月鑑賞を楽しむ、といった具合だ。しかし、そこに留まってしまっては、現実に漕ぎ出すことはできない。山あり谷ありの中を転身自由に進む力量はまだないようだ。
仰山はさらに「安坐して衣をまとい、これから先、自ら観察してみよ。」とアドバイスした。万松はこのアドバイスについて〔さらに帆にかかる風を添えた〕と、仰山は僧の舟に追い風を送ったなぁとコメントした。
このように、仰山の指導法はとても親切だ。雲門も「仰山は深い慈悲のゆえに、わかりやすく噛み砕いた言葉で接した」と評価している。
僧もまた聡明だった。もし修行者がこの境地に達したならば、自らを誇って己に固執し、道中の真の楽しみを知らないまま、我が家に辿り着くことができなくなってしまう。仰山はかつて自らその道を歩んできたからこそ、親切心で、別の活路を示したのだ。
仰山の前日譚とは?:仰山もかつて向上にとらわれていた
昔、仰山が夜中に僧堂前で坐禅をしていたとき、山河大地から、自身の身体に至るまで全く見えなくなり、すべてが空と同じ状態になった。翌朝、師の潙山霊祐 (いさん れいゆう)に報告すると、潙山は「私もかつて百丈懐海(ひゃくじょう えかい)のもとでこの境地を得た。これは浮ついた妄想が消滅し、清浄な明度があらわれた功徳だ。お前が今後説法を行っても、お前を超える者はいないであろう」と言った。
さらに、潙山は「お前のその理解から言えば、なお法が存在しており、主観と客観の対立を離れていない」と言った。仰山が「既に完璧な階位もないのに、どこに心と境の対立がありましょうか」と問うと、潙山は「先ほどお前がそのように解釈したこと自体が、心境の対立ではないか」と言い、仰山は「その通りです」と認めた。潙山は「それなら主観と客観の対立にとらわれたままである。どうして何も無いと言えようか」と言った。
仰山はこうした体験をもとに、この僧にそのようなとらわれが残っていることを見抜き、道理に基づいて「空の体験としてはその通りだが、そこから抜け出て現実を生きる力としてはまだ不十分だ」と判定したのである。
私の体験談
雑念はどう消えるのか?:AIエージェントとの格闘で気づいた「いま・ここ」のはたらき
今回の公案は、空を体得したあとの話を取り上げているので、レベルが高すぎる。もっとレベルを下げた話をするために、私の体験談を紹介しようと思う。
私は普段、働きに出る以外はずっと一人で過ごしている。それで、一人で過ごすようになってすぐ、雑念がかなり減ったことに気がついた。「なるほど、雑多な中にいたままではいくら坐禅に励んでも雑念はなくならないのか。だから世俗を離れることが前提なのか。」と深く感心した。しかし、依然として、ちょくちょくと昔のことばかり思い出すのである。
確かに、世俗を離れ、職場でもできる限り人間関係を少なくするよう努力することで、まるで太陽が雪を溶かすがごとく外からやってくる雑念は自然に消えた。しかし、自分の部屋の塵は自分で掃いていかないとならないように、かつて世俗に浸かって自分の中にため続けた雑念は消えてはくれなかった。
それで、それがひょんなことで解決した。
それはAIエージェントを導入したことである。今までは、チャット形式でAIに仕事を頼んでいたのだが、それで間に合わなくなってきたのだ。AIエージェントは、チャット形式のように仕事を丸投げではだめで、まるで部下をサポートするように、こちらで環境を整えてやらなければならない。それが上手くいかないと、AIエージェントはおかしなことをする。
そうして二週間ほど無我夢中でAIと格闘しているうちに、あれほど私を苛んでいた「過去への執着や雑念」が、浮かばなくなってきたのである。相手(AI)と向き合い、「いま・ここ」の現実に全身で即応せざるを得なくなった瞬間、部屋の塵を思い煩っていた「私」そのものを忘れていたのだ。
Q&A
- Q: なぜ仰山は教えを与えることをやめ、「これから先は自ら看よ」と突き放すように自己観察を命じたのですか?
- A: なぜならば、師匠への依存を断ち、自らの足もとで実践していくほかないからです。
AIコメントを読む前の心の天気は?