趙州従諗:修行とは特別な場所でなく、今の歩みにある
台山の道の途中に、一人の老婆がいた。
僧:台山への道を行くとき、どこへ向かって行けばよいのか?
老婆:驀直去(まくじきこ/まっすぐ行け)。
僧はそのまま少し歩いて行った。
老婆:立派な修行僧だが、やはりそのまま行ってしまったな。このことを、ある僧が趙州に話した。
趙州:よし、私が代わりに見極めてこよう。趙州もまた、前と同じように老婆に問いかけた。
翌日、趙州は法堂に上がって言った。
趙州:私はお前たちのために、あの老婆を見抜いてきたぞ。従容録 第十則 台山婆子
あらまし:趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん)
要点:登場人物は趙州従諗と老婆。趙州従諗は、南泉普願に参じ、平常心是道の大悟を得た。
本則の主人公は趙州従諗。趙州は禅話においては人気者で、碧巌録では百則中十二則、無門関では四十八則中六則、従容録では百則中六則は趙州の話である。趙州は、唐の代宗帝の時代に生まれ(弘法大師空海より四歳年下)、百二十年生きた長命の人だ。
十八歳ごろ、はじめて南泉普願に相見し、そのもとで平常心是道(びょうじょうしんぜどう)の大悟を得、五十七歳の頃南泉が遷化(せんげ、死亡)、六十歳で再び諸方の禅の道場を訪ねてまわった。八十歳になって、趙州城東観音院(今の河北省正定府)の住職となり、百二十歳まで多くの参禅者を指導した。
老婆については、正体不明だ。禅の公案では、よくこのような禅に詳しい老婆が出てくる。
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五台山の老婆:見抜かれた僧侶の行動
要点:台山の老婆は「まっすぐ行きなさい」と答えた。僧侶がそのようにまっすぐ歩くと、老婆は呆れる。
台山は山西太原府にある、文殊菩薩の霊場として有名な五台山のことだ。この台山の道端にお茶屋があって、そこに老婆がいた。唐代には、参禅し修行した女性があちこちにいたようだ。この、台山の霊場参拝にでかける僧侶は、常に多くあったが、この婆さんの接待を受けた。
そして、上山の路を聞くと、老婆はつねに「まっすぐ行きなさい」と答えた。この「まっすぐ行きなさい」という台詞はただの道案内ではない。それは、まっすぐに行けといっても、それが脇道だったとしたら、ただまっすぐに行っただけでは台山にはたどり着かないからだ。だから、これは単純な道案内ではなく、禅問答であることに、僧侶は気づかなければならない。それなのに、僧侶はそのまままっすぐ歩いていってしまう。すると婆さんは「立派なお坊さんが、やっぱりあのようか」というのだという。
趙州従諗:見抜かれた老婆の真意
要点:趙州は台山の老婆の真意を見抜くことができた。
趙州はそんな話を聞いて「よし、わしがお前たちのためにそのばあさんの力量を見届けてやろう」といって、台山へ出向くことになった。さて、趙州がでかけていって老婆に他の僧侶と同様「台山へはどう行くのか」と聞いた。婆さんは趙州に対しても同じ返事をした。それなのに趙州は上堂して、「私はお前たちのために老婆を見抜いてきた」と告げた。
これはどういうことなのだろうか。
老婆の真意と趙州従諗の行動:「今ここにある一歩」が真の修行
要点:老婆の真意は、台山のような聖地に行くことが大切なのではなく、今の一歩が大切だということだ。趙州は今の一歩そのものを大切にして歩いた。
老婆の意図は、五台山のような聖地に着くことが大事なのではなく、いま踏み出している一歩を、そのまま大切にして進むことこそが修行であるという点にある。
本来霊場はどこにあって、本来文殊菩薩はどこにいるのか?
どうして自分の中の霊場や文殊菩薩に向き合うことを置き去りにして、わざわざ外の聖地や場所に求めてしまうのだろうか。
そんなことをして一生を費やすのは徒労だ。同じ「驀直去(まくじきこ/まっすぐ行け)」と言われても、他の僧は五台山へ着くために歩き、趙州はいまの一歩そのものとして歩いた。この違いによって、老婆の言葉の働きがその場で成り立ち、趙州は老婆の意図を確かに見抜いたと言えたのである。
核心
- 特別な霊場や聖地に行くことが修行なのではなく、いま自分が踏み出している「今の一歩」こそが真の修行である。
- 多くの僧はどこか遠くの目的地を目指して歩くが、大切なのは外の場所に答えを求めることではなく、自分の中にある仏性に向き合うことである。
- この「驀直去(まっすぐ行け)」の真意に気づき、今ここにある歩みそのものを大切に生きることの大切さをこの公案は教えている。
私の体験談:いまここを道場にしよう
要点:修行道場で掃除や雑務を黙々とこなしている最中に、ふとこの集中力は、道場でなくても生まれるのではないかと、感じた。私は、いま歩んでいる一歩を大切にしその場を道場にすることの意味を体験した。
道場で修行していた頃、私は道場という場所に身を置くからこそ修行になるのだと考えていた。伽藍や作法、鐘の音、師家の存在、それらがそろっている場だけが特別であり、そこに身を委ねることで修行が成立するのだと思い込んでいた。ある日、掃除や雑務を黙々とこなしている最中に、ふとこの集中力は、道場でなくても生まれるのではないかと、感じた。それは、場所を離れても失われないものだった。
これは、修行は道場という空間に依存しているのではなく、いま目の前のことにどう向き合うかによって立ち上がるのだ、という実感が生まれた瞬間だった。「どこかへ行けば、本物の修行がある」という思い込みがほどけ、いま踏み出している一歩そのものが修行なのだと腑に落ちた。
その体験があってから、五台山の老婆の公案を読むと、単なる言葉ではなく、自分自身の経験に重なって響く。聖地や道場を目指すのではなく、いま歩んでいる一歩を大切にしその場を道場にすることの意味が、体験されたのだ。
現代の生活に活かす禅のヒント:家や職場も道場にできる
要点:どこか特別な場所に行かなくても、家でも職場でも、どこでも道場とすることができる。
老婆の「まっすぐ行きなさい」は、修行は特別な場所に限定されるものではなく、いま向き合っている一歩の中に成立することを示していた。私の掃除の中で感じた集中と体験は、この公案がはるか昔の中国の話なのではなく、日常で再現可能なことを示した。こうして、「どこへ行くか」よりも「どう歩むか」に重心を置いたとき、日常そのものが修行の場となる。老婆の公案は、答えは遠くではなく、いま踏み出している一歩の中にある、と示しているのである。
つまり、どこか特別な場所に行かなくても、家でも職場でも、どこでも道場とすることができるのである。
Q&A
- Q: 日常生活で「驀直去(まっすぐ行け)」をどう実践すればいいですか?
- A: いまやっている動作に注意を戻し、結果や評価に引きずられすぎないことです。「これでいいのか」と迷い続けるより、今していることに向き合う。その繰り返しが「まっすぐ行くこと」の実践になります。(著者のひとこと:私も、記事を書いていて「これやって意味あるのかなぁ」と思うことがあるので、本当に耳が痛いお話です!)
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