食三分の偈(じきさんぶんのげ):原文と読み下し・現代語訳
食三分の偈:仏は世間からの出家への批判に対してどのように答えたか?
食三分の偈とは?:禅宗において食事の前に唱える偈文
要点:「無上菩提心(最高の悟りを求める心)を自ら発起し、執着なく得る・得ないという分別を離れた無所得の修行をし、真実の法を説いて他の人々にも菩提心を起こさせ、悟りへ導く活動をすることが、真実の報恩となる。
食三分の偈とは、食事を頂く前に唱える偈文だ。生飯の偈を唱えてから唱える。
この偈文は、私の修行道場では、特に名前を呼ぶことはなかった。記事を作成するに当たって、いろいろなサイトを当たってみたのだが道場によってまちまちだった。そこで、昭和期の書籍をあたったところ、三冊の本から「食三分の偈」と呼ばれていたことがわかったので、この記事では、「食三分の偈」とすることにした(参考:沢木興道 著 (1941) 『座禅の仕方と心得 : 附・行鉢の仕方』 代々木書院、参考2:中根環堂 著 (1942) 『禅の生活』 宮越太陽堂、参考3:日本教学研究所 編 (1943) 『日本教学研究所調査報告 第1輯』 日本教学研究所出版部)。
語句解説
- 上分三宝…上分とは、 最上位、理想、仏道そのもののこと。三宝とは、 仏教における三つの宝のこと。「仏(目覚めた人)」「法(真理の教え)」「僧(教えを修める共同体)」。
まず最初(上分)に、私たちが目指すべき真理の象徴である三宝に食事を捧げる。 - 中分四恩…中分とは、中間、現実的な生活のつながりのこと。四恩とは以下の四つを指す。
四恩
- 父母の恩: 産み育ててくれた。
- 衆生の恩: 社会を構成する人々の助け合い。
- 国主の恩: 平和と秩序を保つ社会システム。
- 三宝の恩: 日々の迷いを正してくれる仏道の教え。
私たちが今ここで生きていられるのは、多くの「縁」のおかげだ。その具体的な支えに対して感謝を捧げる。
- 下及六道…下及とは、下方へも行き渡らせるという意味。六道とは、 迷いの中で苦しみを受けるあらゆる生命のあり方(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のこと。
自分を支えてくれる存在だけでなく、まだ救われない苦しみの中にある存在(六道)へも、同じ食事を分け与える。 - 皆同供養…自分自身も含むすべての存在が平等に供養を受ける
この四恩が何を指すかは、大乘本生心地觀經報恩品の中で書かれている。
善男子。汝等所言未可正理。何以故。世出世恩有其四種。一父母恩。二衆生恩。三國王恩。四三寶恩。如是四恩。一切衆生平等荷負。大乘本生心地觀經報恩品 原文
善男子よ。あなたたちが言っている(出家すれば恩を捨てるという)ことは、まだ正しい理(ことわり)ではない。なぜかといえば、この世と仏道には四つの恩があるからだ。一には父母の恩、二には衆生の恩、三には国主(社会・国家)の恩、四には三宝(仏・法・僧)の恩である。この四つの恩は、すべての衆生が平等に背負っているものである。
大乘本生心地觀經報恩品 現代語訳
そもそも、大乘本生心地觀經卷報恩品のこの箇所は、五百長者たちが仏にぶつけた「出家修行(父母や家族を離れて苦行すること)は、残酷で恩を知らない行いだ」という批判に対して書かれたものだ。そこで、父母や家族に変わって真実波羅蜜を実践することこそが本当の報恩なのだと解く(出典:『大乘本生心地觀經』卷第二(大唐罽賓國三蔵般若奉詔訳)「報恩品第二之上」|SAT大蔵経 No. 0159)。
真実波羅蜜
- 無上大菩提心を発起する:最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を求める心を起こす。
- 無所得に住する:執着なく、得る・得ないという分別を離れて行う(無所得の智慧)。
- 衆生を勧めて同じ心を発させる:他の人々にも菩提心を起こさせる。
- 真実法(仏の教えの要)を施す:たとえ四句の偈(短い詩偈)でも、一人の衆生に法を説き、その人を無上正等菩提(最高の悟り)へ導く。
つまり、「無上菩提心(最高の悟りを求める心)を自ら発起し、執着なく得る・得ないという分別を離れた無所得の修行をし、真実の法を説いて他の人々にも菩提心を起こさせ、悟りへ導く活動をすることが、真実の報恩となる。
核心
- 出世間の恩では特定の人や組織にこだわるのではなく、全体への恩を考える。
- 無上菩提心を自ら起こし、無所得の修行をし、真実の法を説いて他の人々にも菩提心を起こさせ、悟りへ導く活動をすることが、真実の報恩となる。
- 食三分の偈とは、禅宗において食事の前に唱える偈文である。
私の体験談:世間の恩と出世間の恩
要点:「世間の恩」と「出世間の恩」とでは意味合いが違う。「出世間の恩」では特定の人や組織にこだわるのではなく、全体への恩を考える。食三分の偈は、個人への恩返しという次元ではなくて、全体への恩返しをしていくという次元だ。
私は修行道場時代は、みんなが唱えるからこの偈文を唱えていた。だからこの偈の意味をよく知らなかった。それから、偈文の意味について考える機会に恵まれたので、この偈文について深く考えてみた。
まず第一に思うのは「恩を断ち切れ」という禅において、なぜ「四つの恩」というものが出てくるのか?ということだ。それで、私ははじめ「さてはこれは禅寺という組織を運営してく上で、ある程度の折り合いが必要だったのだな」と考えた。つまり、国家などの社会とやっていくため、寺院を統制していくための方便だと考えたのである。実際に寺院内では、個人に対して恩を尽くせという考えが確かにあった。
しかし、それから年月が経ち、私も社会から離れる期間が長くなってくると、これは、「世間の恩」と「出世間の恩」とでは意味合いが違うのではないかと感じるようになった。禅の古典では、修行者が悟るために世話になった師匠を離れることを認める例があるからだ。
一般的な「世間の恩」というと、特定の人や組織に中心を誓うとか、特定の人や組織に恩返しをする、というイメージがある。しかし、仏道での「出世間の恩」では特定の人や組織にこだわるのではなく、全体を考える。だから、この偈文では、確かに「父母・国家・衆生など」に対しての恩をいっているのだが、それは全体に内包されているのであって、個別の「父母・国家・衆生など」に対して忠義を果たせとか、恩義を尽くせとかいって強制しているわけではないのである。だから、寺院内において、個人に対して恩を尽くせという考えがあるのは、単に寺院が世俗化しているに過ぎないのである。
こんな偈文がある。
流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者
これは恩愛を断って出家しようとする際に唱える偈文だ。意味は「恩愛を棄てて仏道に入ることが本当の意味で恩に報いることになる」という意味だ。つまり、今回の偈文は、社会的な個人への恩返しという次元ではなくて、全体への恩返しをしていくという次元の話なのである。
Q&A
- Q: なぜ「出家修行」が最大の恩返しになるのですか?
- A: なぜならば、執着を離れ、最高の悟り(菩提心)を目指す修行こそが、すべての生命を救うための「真実の報恩」だからです。個人的な恩愛(貸し借り)の枠組みを超え、真理を体得して他者をも導く活動をすることこそが、父母を含む全存在への究極の還元になるからです。
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