十仏名(じゅう ぶつみょう):原文と読み下し・現代語訳
十仏名(十佛名):自分自身が仏や菩薩になることを目指す
要点:十仏名とは、十の仏・菩薩・教えを唱える念誦である。禅では、自分自身が仏や菩薩になることを目指す。
十仏名とは?:十の仏・菩薩・教えを唱える念誦
十仏名とは十の仏・菩薩・教えを唱える念誦だ。これは葬儀でも唱えられるし、道場でも坐禅堂での食事の際や念誦にて唱える。今日、日本で唱えられている読み方は、中国の宋の時代に由来する。そのため、日本人がこれらの言葉を聞くと、不思議に感じることがある。というのも、禅が日本に伝わった時点で、漢字の使用はすでに日本に入っていたからだ(参考:漢字の読み方について(当ブログ))。
この十佛名は、通常は旋律なしで唱えられるが、今回のものは特別に旋律付きで唱えた。これは非常に珍しいものだ。旋律なしの普通のものは、なにか他のお経などの付随として公開する予定だ。
- 清浄なる法身の毘盧舎那仏…清浄(しょうじょう)とは煩悩や執着がない状態、法身とは宇宙の普遍的な真理そのもの、毘盧遮那仏とは宇宙の真理そのものを仏とした存在。
- 円満なる報身の盧遮那仏…円満とは修行や功徳が欠けることなく成就した状態、報身とは修行の結果(果報)として得た身、盧遮那仏とは修行によって獲得した無量の功徳が光り輝く姿となって現れた姿。
- 千百億の化身である釈迦牟尼仏…千百億の化身とは相手の能力や状況に合せて無数(千百億=無数)の姿に変えてこの世に現れること、釈迦牟尼仏とは、盧遮那仏や毘盧遮那仏が現実世界に現れた存在。
- 未来に下生される弥勒尊仏…未来に下生とは将来苦しみの多い現実世界へ降りてくること、弥勒尊仏とは天界で修行を続ける未来の救済を担う存在。
- 十方三世のすべての諸仏…十方とは東西南北に北東・南東・南西・北西と、上と下を加えた全宇宙のあらゆる方向のこと、三世とは過去世・現在世・未来世のこと、すべての諸仏とは宇宙の広大な空間と永遠に続く時間軸のすべてに充満している無数の仏のこと。
- 大乗の妙法蓮華経…大乗とは他者の救済を重視する教えのこと、妙法蓮華経とは一切皆成仏の思想で社会で生きることを説く救済の経典のこと。
- 大聖なる文殊師利菩薩…大聖とは一切の迷いを断ち切った聖者、文殊師利菩薩とは智慧の完成者のこと。
- 大行なる普賢菩薩…大行とは止まることなく善行を積み重ねること、普賢菩薩とは智慧の実践者のこと。
- 大悲なる観世音菩薩…大悲とは他者の苦しみ取り除こうとする心のこと、観世音菩薩とは苦しみを聞き届け自分事として共感しあらゆる手段を尽くして救い出そうとする菩薩のこと。
- 諸々の尊き菩薩摩訶薩…大乗仏教の理想を体現し、広大な実践を行っている菩薩たちの集団のこと。
- 大いなる般若波羅蜜…悟りに至るための究極の知恵のこと。
この十仏名は前半と後半にわけることができる。
前半:仏たちを唱える
法身・報身・応身(化身)を合せて三身といい、仏の身体を表現する。たとえるなら、法身はそのものであり、報身は光などの様子、応身(化身)はその光などが与える現象のこと。たとえるならば、太陽が法身だとすると、報身は太陽の光であり、応身(化身)はその太陽の光が人々に温もりを与える。
盧遮那仏や毘盧遮那仏は象徴的な存在だが、釈迦牟尼仏は、現実に実体として現れた存在だ。弥勒尊仏は、今はまだ実体として存在しないが、釈迦牟尼仏のように実体として現れるポテンシャルを持つ存在ということだ。そして、悟りを開いた仏は無数にいる。
後半:菩薩たちを唱える
ここで、妙法蓮華経が登場する。妙法蓮華経とは一般的にいえば、一切皆成仏の思想で社会で生きることでの救済を説く経典だ。そこで、仏にならずに、菩薩として人々の救済にあたる存在が出てくる。菩薩とは、修行をしつつ、自分の悟りを後回しにして、人々の救済にあたる存在だ。文殊菩薩は智慧をもって人々の妄想を断ち切り、普賢菩薩は智慧をもって善行を積み重ね、観世音菩薩はあらゆる手段で人々を救い出そうとする。しかし、禅では、菩薩たちについてそのような捉え方をしない。禅では、菩薩は自分自身であるからだ。私は十仏名を、仏や菩薩に祈るためだけの念誦ではなく、仏や菩薩と共鳴し、そのあり方を自ら体現していくための念誦として受け取っている。そのような菩薩が多くいて、智慧(見抜く力)を持って、迷いの世界を渡り切り、完成させることを讃えてこの念誦は終わる。
核心
- 禅では、仏や菩薩を自らの実践として体現することを重視する。
- 私は十仏名を、自分自身が仏や菩薩になることを目指す誓願として考える
- 十仏名とは、十の仏・菩薩・教えを唱える念誦である。
私の体験談:禅と法華経における緊張関係
要点:禅は法華経をどう読むのか?
大乗仏教では「社会の中でみんなで悟りを目指す」ことをスローガンにしており、他者救済に焦点を当てる。特に法華経は、他者救済としての物語の筆頭だ。しかし、禅こそ、自分の努力で悟りを目指す考え方であり、この考え方は法華経と緊張関係にある。
であるのにも関わらず、禅の修行道場では法華経を唱えたり、今回の十仏名のように法華経を讃嘆している。それはなぜであろうか?また、なぜ、道元の『正法眼蔵:安居』では、「大乗妙法蓮華経」の部分が除去されているのだろうか?私はずっと法華経について疑問をもっているのだが、法華経の読み方が、禅と他宗派とでは異なっているからだと思われる。なんとか機会を見つけて法華経について考察したいと考えている(参考:道元 撰 (1926) 『正法眼蔵:安居』 鴻盟社。)。
Q&A
- Q: なぜ禅寺でも法華経を唱えるのですか?
- A: なぜならば、禅は坐禅だけを重視する宗派ではなく、古くから大乗仏教の経典を受け継いできたからです。そのため禅寺でも法華経が唱えられています。また、今日のような宗派の区分が一般社会に広く定着したのは江戸時代の檀家制度(人々の寺院所属と宗派所属を世襲的に固定化した制度)以降です。本来の仏教は、宗派同士が互いに影響を与えながら発展してきました。
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