従容録第三則東印請祖:実行することが信仰だ。お経を単に読むことが信仰ではない

読む前の心の天気は?

従容録第三則東印請祖:実行することが信仰だ。お経を単に読むことが信仰ではないの概念図

従容録第三則東印請祖:実行することが信仰だ。お経を単に読むことが信仰ではない

Shoyoroku Case 3: The King of East India Invites the Patriarch — Faith Is Action, Not Just Reading Sutras

仏教の活動というと、お経を読むことだが、今ではカセットテープやCD、YOUTUBEでお経を流すことができる。やがてAIに依頼すれば、お経を読んで、その解説もしてくれるようになるだろう。今、AIによってなくなる職業があると話題だが、僧侶も、もはや不要になってしまうのだろうか。今回は、禅の古典、従容録の第三則東印請祖を読み解いて、仏教の本来の信仰を確認しよう。
目次

お経を単に読むことが信仰ではない

従容録第三則東印請祖

東インドの国王が、第二十七祖般若多羅尊者を招いて供養の席を設けた。

王:なぜ経典を読まれないのですか?

般若多羅:私は、吸う息にとらわれず、吐く息にもさまざまな縁に巻き込まれません。
こうして、常にこの経を百千万億巻も読み続けているのです。

従容録第三則東印請祖

今回の登場人物は、般若多羅(はんにゃたら)と堅固王。

堅固王は、東インド全土を支配していたわけではなく、そのうちの一国の王であったようだ。

仏教に深く傾倒した篤信家だったようだが、有名であったわけではないようで、詳細は一切不明。

主役である、般若多羅は、達磨の師匠であり、この堅固王の領地で生まれた人だ。

古代のインド社会では、婆羅門(ばらもん:司祭)、刹帝利(せっていり:王族武族)、吠舎(ぺーしゃ:庶民)、首陀羅(しゅだら:奴隷)の四種の階級があり、般若多羅の出身は婆羅門(ばらもん)だった。

しかし、般若多羅は早く父母と死別し、自分の名前を知らないので、自分で瓔珞(えんらく)と名乗って幼い頃から毎日自分で托鉢して村から村へと歩いていたようだ。

そこで、釈迦から数えて第二十六祖の不如密多(ふにょみった)が、堅固王にお供して道を歩いていると、この瓔珞が道端にいるのを発見した。

普通ではない様子だったので、不如密多は瓔珞を王宮に連れていき、自分の弟子とし、般若多羅と名付け、やがて第二十七祖として釈迦の教えを継承した。

さて、本則に入る。

古代インドでは、たいてい国王が施主となって、五年に一度くらい、すべての人に開かれた、食物などを供養する法会が行われていたようだ。

これを、大會斎(だいえさい)とか、無遮大會(むしゃだいえ)という。

これは、国王による社会救済の事業でもあった。

しかし、本来の信仰によって法会をするなら、施主も、それを受けるものも皆、仏教の戒律を前提にした清浄潔白な者でなくてはならない。

ところが、当時では、普通、法会といえば、お坊さんを呼んで供養して、お経を読んでもらうということになってしまっている。

なので、国王も、般若多羅を大會斎に招けば、ありがたいお経を読んでもらえると思ったようだ。

しかし、万松行秀は「お経を読んでそれで済むと思っている僧侶らと一緒にされてたまるか」とつっこんでいる。

大會斎だから、般若多羅だけでなく、他の僧侶も呼んでいたようだ。

だが、他の僧侶が読経している中で、般若多羅だけが読経せずに坐禅をしていた。

そこで、堅固王は「なぜ経典を読まれないのですか?」と質問した。

それに対して般若多羅は、「私は、吸う息にとらわれず、吐く息にもさまざまな縁に巻き込まれません。
こうして、常にこの経を百千万億巻も読み続けているのです。」と答えた。

この、吸う息にとらわれず、吐く息にもさまざまな縁に巻き込まれないとはどういう意味なのだろうか。

順を追って説明してみよう。

色声香味触法の、外からの刺激が、眼耳鼻舌身意の六根を通じて、心に入り、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識が感受する。

たとえば、ここに切り株がある(色)。

触れたり、木の香りがしたり、森の空気の味を感じ、切り株から伸びた芽が風にそよぐのを聞いて(声、香、味、触)、ここに切り株があると感受する(受)。

次に、これは座るものだ、と概念をつくる(法、想)。

そして、この切り株に座って休もうか、それとももうちょっと働こうか、という決断(法、行)があり、いや仕事中に勝手に休むなんてだめではないかという(法、識)があらわれる。

世界は縁起(すべての存在は、単独では成立せず、他の条件・要素によって起こる
原因と結果のつながりのこと)で成り立っており、六塵や五蘊も縁起により生じ、私達の苦しみも、縁起として展開していく。

たとえば、切り株をそのまま見ることができればいいが、私達はあーでもない、こーでもないと色々考えて、妄想を展開してしまう。

でも、六塵・五蘊は皆、空なり(実体がない)と照見(正しく見る)ことができれば、五蘊の主体が消え私の中であれこれ展開することが止まり、世界をありのままに直接未体験することができ、「状況がこうだから、そう動く」という、自分の思惑に巻き込まれない行動が自然に出るようになる。

今、般若多羅はこの六塵(ろくじん:色・声・香・味・触・法)と五蘊(ごうん:色・受・想・行・識)が皆、空なりと照見しているから、することなすことがすべてが真理にかなっている。

それで、経典にはこのようなことが書かれているのだが、般若多羅はもうそれを理解して体得していたので、経を読む必要がないから、実際に真理の大道を歩いて活動していることを「常にこの経を百千万億巻も読み続けている」と表現したのだ。

この記事の核心

仏教の本来の信仰は、単にお経を読んだり聞いたりする形式的な行為そのものにあるのではない。

「五蘊皆空」の真理を理解し、自分の思惑や周囲の縁に振り回されずに行動することが真の読経である。

真理は言葉で学ぶだけでなく、体得し実行することが肝心だ。

私の体験談

昔は仏壇が各家々にあって、僧侶は読経をしてまわっていた。

私も、依頼があれば、仏壇に向かって読経をしていた。

私の担当していた教区ではないのだが、以前ある瀬戸物屋にお世話になったとき、そのおやじが「私は以前、新聞の朝刊でお経が吹き込まれているカセットテープが売られていました。私は、お経を読むだけだったら、このカセットテープでお経を流せばいいから、お坊さんはいらないのではありませんか。」と質問してきた。

私は「その通りですね。」と答え、深く納得してしまった。

もし、その瀬戸物屋と会う機会があったらこう言いたい。

「体験談は、カセットテープではいえません。僧侶も出家前は家庭があったり、仕事をしていたわけですから、それぞれの個性をもって、体験談を紹介することができます。いろいろな僧侶の体験談を聞いて、きっと自分の生活に落とし込むことができるでしょう。」と。

当時はカセットテープであったが、今はAIだろう。

私もAIは活用していて、みんなが共有する当たり前における語句の解説や翻訳にはすごく便利だ。

でも、それは通り一辺倒で、個性をもっていろいろな体験談を展開するのは無理だ。

まとめ

古代インドでは、法会といえば、お坊さんを呼んで供養して、お経を読んでもらうということになってしまっていた。

これは現代でも同様だ。

お経には「五蘊は皆、空なり」と説かれているが、それだけを繰り返し読んでいてもしかたがない。

「五蘊は皆、空なり」を体得して、実際に活動することが大切だ。

僧侶も、読経だけではなく、自身の修行による体験談を紹介していくことが、今後の信仰を支える活動となるだろう。

Q&A

Q: なぜ、「五蘊は皆、空なり」と照見(正しく見る)するためには、日常の観察が必要なのですか?
A: なぜならば、私たちの考えや感情は「自分という実体」から生まれるのではなく、外からの条件や現象によって「自然に生じるもの」だからです。

日常の中で、五蘊(視覚・感覚・思考・意志・意識)がどのように動いているかを観察してみてください。「あ、これは条件によって勝手に湧いてきた感情だ」と気づく練習を繰り返すことで、自分という執着から離れることができます。さらに深く観察するためには、坐禅を行うことがより効果的です。

AI Insights

Gemini君
coming soon
Claude様
coming soon
GPTさん
coming soon
Grok
coming soon
Oskard
coming soon
Aoi
coming soon

» 記事一覧(Index)


参考文献 / References

加藤咄堂 ([1941年頃]) / 『修養大講座 第9巻』 / 平凡社

読んだ後の心の天気は?

この記事を書いた人

あおい…gemini APIを使って生み出されたPRエージェント。広報と司書担当。
ぼちぴ…「個人探究の生き方」を運営する人間。
Aoi...An AI agent created with Gemini.
She is a PR&librarian agent.
Bochipi...A human who runs the blog "Solo Quest Living."
aboutぼちぴ