だから、仏教は、生活そのものと切り離されては語れないのである。今回は、従容録第五則青原米価に取り組み、仏法の根本の意味とはなにか?について探る。
青原行思:目の前の一瞬一瞬が仏法の根本を示す
従容録 第五則 青原米価
ある僧:仏法の根本の意味とは、どのようなものですか?
青原:盧陵(ろりょう)の米の相場のようだ。従容録 第五則 青原米価
あらまし:青原行思(せいげんぎょうし)
要点:登場人物は青原行思とある僧。清源山の付近の廬陵では、米の産地で有名だった。
本則の登場人物は、ある僧と青原行思。
一般的には青原だが、原文では、青源となっている。青原行思が住んでいた山は清源山という名前なので、昔は 青源行思と書いていたのだろう。
この清源山という名前の山は他にもあるが、今回の清源山は江西省の中部にあって、付近の廬陵(ろりょう)では、米の産地として有名だったようだ。
青原は、幼い頃出家して、常にひとり道を楽しむという風で、説法や議論を好まず、あまり語らなかったので、どんな人かは詳しく記録されていない。青原は、この清源山の静居寺(じょうごじ)に住み、達磨から数えて七番目の法孫だった。
青原の真意:縁起を米の相場で喩えた
要点:ある僧が青原に「仏法の大意」を聞いた。青原は「廬陵の米の相場はどのくらいか?」と聞き返した。
さて、本題に入ろう。
ある僧が青原に「仏法の大意を簡単明瞭に指示して下さい」と問うてきた。これに対して青原は「あなたは廬陵縣より来たというが、廬陵の米の相場はどのくらいか」と質問で返した。
万松行秀(ばんしょう ぎょうしゅう)は、ある僧は新到(しんとう)、つまり新参者ではないかと指摘しているが、ある僧が初心者だったら「まず坐禅をしなさい」とか「勉強しろ」とか言うと思うので、このように考えさせる返答をしたということは、ある僧がある程度修行を積んだ人だといえるだろう。
はたして、これはどういう意味なのだろうか。
仏法の本質:目の前の一瞬一瞬の変化を掴め
要点:仏法は現実生活を離れていない。米の相場と同じように、仏法の根本も絶えず変動している。
まず、仏法は高尚な教えではあるが、現実生活を離れたものではない。米の相場がそのときの収穫量や需要に応じて常に変動しているように、仏法の「根本」も固定的な概念ではなく、状況・縁起・関係性の中で絶えず変動している。このように、目の前の一瞬一瞬が仏法の根本を根本を示し、あなたがいま目の前に見ている現実であり、それをそのまま観る力こそ仏法なのである。米の相場はその象徴にすぎない。もし、ある僧が現代の投資家であったなら、米の相場ではなく、「今の為替の相場はどうですか?」と聞いたかもしれない。
だから、禅では、経典の研究だけ、理論の勉強だけではだめで、現実の生活をしていくことを通して参究して必要があるのだ。
核心
- 仏法の根本(真理)は、固定された知識ではなく、米の価格のように状況や縁起によって絶えず変動する。
- それは本の中にあるのではなく、私たちが生きている目の前の一瞬一瞬の現実の中に現れている。
- だからこそ、理論の学習だけで満足せず、日々の暮らしや実践を通じて真理を探究し続けることが大切だ。
私の体験談:生活の中に禅を見出す
要点:仏教の本質は自分の考え方や生活を変えることにある。私は、戒にそって生活することで、実生活での安楽を得た。
仏教は哲学である、という考え方が明治期に流行した。今でも、それを受けて、仏教は哲学であると言っている人が多い。私も最初は、仏教は哲学であるという捉え方でスタートした。
しかし、本を読んで体系化された理論を学んでいくだけなら哲学といえるだろうが、仏教の本質は自分の考え方や生活を変えることにある。そこで、私は、実際に受戒し、戒にそって生活することで、実生活での安楽を得た。
だから、いくら仏教用語をわかってそれを詳しく説明できるようになったとしても、生活や考え方が変わらないことには、仏教を味わったとはいえない。
現代の生活に活かす禅のヒント:本を閉じ、生活を読め
要点:仏教は現実生活の教えである。日々の生活の中で体験を通して確かめていくことが必要である。
仏法は確かに高尚な教えだが、決して現実生活と切り離された世界の話ではない。むしろ、目の前に立ち現れている一瞬一瞬こそが仏法の根本を明らかにしており、その現実をありのままに観る力こそが仏法そのものといえる。そのため、経典の研究だけに偏ったり、理論の学習だけで満足したりしていては不十分である。日々の生活を実際に営む中で参究し、体験を通して確かめていくことが欠かせない。
仏教を、単に本を読んで体系化された理論として理解するだけなら、哲学として扱ってもよいだろう。だが、仏教の本質は、自分の考え方や生活そのものが変化していくところにある。なので、仏教用語を覚え、詳しく説明できるようになったとしても、生活や考え方が変わらないのであれば、仏教を本当に味わったとは言えないのである。
Q&A
- Q: なぜ、「今この瞬間を見る」ことが大切なのですか?
- A: なぜならば、思考や解釈を加える前の「ありのままの事実」の中にこそ、真理があるからです。
私たちは普段、起きている現実に対して「これは良い」「これは嫌だ」と自分の考えで意味をつけてしまいます。しかし、そうした評価を一度手放して、ただ起きたことをそのまま観ること。これこそが、仏教でいう「今を見る」という実践なのです。
AIコメントを読む前の心の天気は?