嘆仏偈(たんぶつげ):原文と読み下し・現代語訳
嘆仏偈:真理を体得した者は無数にいる
嘆仏偈(歎佛偈)とは?:真理を体得した者を讃嘆する偈文
要点:嘆仏偈とは、嘆仏という法要の一部で読まれる偈文。嘆仏とは、仏陀を讃嘆する儀式。
嘆仏偈とは、嘆仏という法要の一部で読まれる偈文だ。
嘆仏とは、仏陀を讃嘆する儀式。この嘆仏偈は主に導師(司祭、儀式の中心人物)が一人で読誦するものなので、ネットに上がるのは珍しい部類にあると思う。また、今回の偈文の中の一切恭敬(いっさいくぎょう すべての存在が恭しく礼拝します)では、導師だけでなく全員で唱和する。
語句
四八端嚴微妙相…四八端嚴とは、三十二相八十種好が整っていること。微妙相とは、非常に精妙で美しい容貌。
僧祇三大劫修來…非常に長い期間(僧祇三大劫)をかけて修行を積み、成し遂げたもの。
面如満月目如蓮…面如満月とは、お顔は満月のように円満であること。目如蓮とは、目は蓮の花びらのように美しいこと。
天上人閒咸敬仰…天上人閒とは、天上界と人間界のこと。咸敬仰とは、皆が等しく尊敬し、仰ぎ見ること。
一切恭敬…全てに対してうやうやしく敬うこと。
一心歸命三世諸佛…過去・現在・未来のすべての仏に、心を一つにして命を懸けて帰依すること。
四十八というのは、4✕8=32のことで、三十二の優れた身体的特徴のことで、これを元に仏像も作られている。
三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)は、菩薩が発心してから悟りをひらくまでの期間で、仏になるには想像を絶するほどの長い時間と修行が必要だ、という比喩。
三大阿僧祇劫の修行は以下の通りである。
- 十住(じゅうじゅう 信仰と決意の育成段階、初阿僧祇劫)
- 十行(じゅうぎょう 利他行の実践段階)
- 十廻向(じゅうえこう 功徳をすべての存在に分かち与える段階、第二阿僧祇劫)
- 十地(じゅうじ 悟りに近づく階梯、第三阿僧祇劫)
- 等覚(とうがく 悟りに極めて近い)
- 妙覚(みょうがく 悟る状態)
過去・現在・未来のすべての仏については、仏というのは悟った人という意味なので、釈迦だけでなくたくさんいる。
一般的には、帰依する、というのは、過去・現在・未来の悟った人にすがります、という意味。
咸は「かん」と読むようだが、所持している録音では「げん」であり、こちらのほうが読みやすいので「げん」とした。
また、人閒は人間ではなく、人の住む世界、世間、人間関係のことだ。
核心
- 本来の帰依する対象とは、特定の教祖や特定のイデオロギーではなく、真理である。
- 嘆仏偈とは、仏陀を讃嘆する偈文である。
- 仏陀とは真理を体得した者であり、そうした者を讃嘆しているに過ぎない。
私の体験談:それでも地球は回っている
要点:帰依する対象は、特定の教祖や特定のイデオロギーだと思われがちである。本来の帰依する対象とは、真理である。
この偈文は、仏の徳を讃え、帰依する(一心にすがる)ことが主題になっている。日本では、宗教というと、教祖に盲目に従い、主体性がない状態になることをいうのが常識となってしまっている。禅では、主体性をむしろ強調するので、こうした日本にある常識を破る考えだと思った。ところが、禅の道場に行くと、この儀式をやるのである。正直、私は非常にがっかりしてしまった。
私は禅の声明が好きで、嘆仏という法要でも主賛(しゅさん、お経のリーダーをすること)ができたので満足し、禅はいろいろな宗派の考えを取り入れて成り立っているから「まぁこういうこともある」と納得することにした。
しかし、禅の道場を去り、個人で修行をしていると、ある時、禅は主体性が非常に大切なんだけども、主体性を手放さなければいけないということを理解した。それはつまり、地球は太陽の周りを回っていて、重力を持っていて、その上に私は生きているということだ。それは、私の主体性を消さないと、地球が太陽の周りを回っていて、重力を持っているというこの世界と合一することはできない。それはつまり、帰依せざるを得ないということである。
日本人は、帰依する対象は、特定の教祖や特定のイデオロギーだと強く思い込んでいる。でも、そうではなく、本来の帰依する対象とは、柳は緑、花は紅、海は深く山は高い、太陽は東から昇り、西に沈む、そして、地球は太陽の周りを回っていて、重力を持っているということに帰依し、それを体得した人々を讃嘆しているに過ぎないのである。
Q&A
- Q: なぜ、一般的な「帰依」の解釈に異を唱えるのですか?
- A: なぜならば、日本という社会は痛ましい歴史的事件を抱えているからです。1995年の地下鉄サリン事件以降、日本社会では「帰依」や「宗教」という言葉が、教祖への盲従や主体性の放棄と同一視されるようになりました。しかし、私はその解釈こそが、本来の帰依の意味を歪めていると考えています。だからこそ、私はあえて「真理への帰依」という本来の意味を問い直し、盲信ではない、主体的な生き方としての帰依を提唱したいのです。
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