正食偈(しょうじきげ):原文と読み下し・現代語訳
正食偈:食事によって法悦に満ちるようにと願う
要点:正食偈とは、食事の前に唱えられる偈文。この偈文は飲食によってすべての存在が法悦に満ちるようにと願う偈文だ。この偈文の最も古い漢訳での出典は、東晋・佛馱跋陀羅訳『大方廣佛華嚴經』(六十華厳)巻第六だ。
正食偈とは?:食事の前に唱えられる偈文
今回紹介するのは正食偈(しょうじきげ)。禅宗では、食事の作法として大変たくさんの偈文を唱えることは以前紹介してきた通りだ。これは私が修行した僧堂では唱えられなかった。
ある日本山へ参拝に行った帰りに大雪が降り、帰るのが困難となったので、近くの寺院にお世話になったことがあった。そこで教えてもらったものだ。そこの寺院は認可道場ではなくて、個人で運営している道場だったのだが、そこでは、今まで紹介した一連の食事の作法が大変なので、今回の偈文を略として唱えているということだった。
それで、今回の偈文についていろいろと調べてみたのだが、禅宗だけでなく他の宗派でも唱えられていたり、明治時代の真言宗系の本では他の偈文と組み合わせたりしていた。このように、禅宗では、専門道場よりも、個人の修行道場で唱えられる機会が多いと思う(参考:雲照 著・福田慈海 編 (1890) 『十善学童日用行法略軌』 花桝峻崖)。
正食偈:名称について
今回の偈文の名称は、サイトや本によってまちまちだ。後に紹介するが、「正食偈」のあとに唱える偈文「食畢偈」がある。それで、あるサイトでは「食前の偈」、「食後の偈」と紹介していたり、あるサイトでは「正食偈」、「食訖偈」と紹介していた。今回私のブログでは、他宗派ではあるが、明治期の真言宗系の本を参考に「正食偈(しょうじきげ)」、「食畢偈(じきひつげ)」とした(参考:雲照 著・福田慈海 編 (1890) 『十善学童日用行法略軌』 花桝峻崖)。
正食偈:語句解説
- 若飲食時…もし飲食をするときには
- 当願衆生…まさに衆生にために願うべし
- 禅悦為食…禅で得た精神的な喜びを糧として生きていく
- 法喜充満…仏の教えの喜びにより内面が満たされる
つまりは、飲食によってすべての生き物が法悦に満ちるようにと願う偈文だ。
正食偈:華厳経からの出典
この偈文の最も古い漢訳での出典は、東晋・佛馱跋陀羅訳『大方廣佛華嚴經』(六十華厳)巻第六だ。そこで「若嚥食時當願衆生 禪悦爲食 法喜充滿」という形で登場する。その後、唐・實叉難陀訳の新訳『大方廣佛華嚴經』(八十華厳)巻第十四では「若飯食時 當願衆生 禪悦爲食 法喜充滿」と訳され、現在よく用いられる形に近づいた。日本に伝わる過程で、禅宗などの食事作法(正食偈)として定着する際に「若飲食時」という表現が使われるようになり、現在の形になった(出典:『大方廣佛華嚴經』巻第六(東晋・天竺三蔵佛馱跋陀羅訳)「浄行品第七」|SAT大蔵経 No.0278/『大方廣佛華嚴經』巻第十四(唐・于闐国三蔵實叉難陀訳)「浄行品第十一」|SAT大蔵経 No.0279)
ちなみに、「飯」のまま使用しているところもある。たとえば比叡山専修院では飯のまま掲載している。その場合「飯」は「ぼん」と読む。また、粥のときは「飯(ぼん)」を「粥(しゅく)」に変える(出典:比叡山専修院法儀部 編纂 (1929) 『法則集』 比叡山専修院、参考:西山寺のブログ(西山寺))。
かつて円覚寺仏日庵に所蔵された江戸時代の史料『展鉢式』によると、江戸時代の臨済宗では「飯(ぼん)」を「受(じゅ)」としていた。確かに「飯」を「受」や「飲」とすることでいちいちお粥のときに「粥」に変えなくていいので便利だ(参考:舘隆志 (2022) 「円覚寺仏日庵所蔵『展鉢式』について」『禪學研究』第100号、禪學研究會)。
正食偈:食後の偈文「食畢偈」
飲食已訖 當願衆生 所作皆辦 具諸佛法
食畢偈 原文
おんじきいこつ とうがんしゅじょう しょさかいべん ぐしょぶっぽう
食畢偈 読み方
食事が終わったときには、まさに願わくは一切の衆生が、なすべきことをすべて成し遂げ、すべての仏法を具足せんことを。
食畢偈 現代語訳
明治時代の本では、今回の偈文の対の形で、「飲食已訖 當願衆生 所作皆辦 具諸佛法」という偈文を食後の偈として唱えるとある。確かに、華厳経「浄行品」では正食偈のあとに「飯食已訖 當願衆生 所作皆辨 具諸佛法」と出てくる。意味は「食事が終わったら、なすべきことをすべて成し遂げ(所作皆辦)、仏法を具足する(具諸佛法)」というもので、食事の後はただちに修行・利他の実践に励むという願いが込められている(出典:『大方廣佛華嚴經』巻第十四(唐・于闐国三蔵實叉難陀訳)「浄行品第十一」|SAT大正蔵 No.0279、出典:雲照 著・福田慈海 編 (1890) 『十善学童日用行法略軌』 花桝峻崖)。
核心
- 正食偈とは、食事によって法悦に満ちるようにと願う偈文だ。
- 私の法悦とは、出家と禅の修行により、悪口や、ご機嫌取りをしなくてすむことだ
- 正食偈とは、食事の前に唱える偈文である。
私の体験談:私の法悦は、悪口やご機嫌取りがないこと
要点:私の法悦とは、出家と禅の修行により、悪口を聞いたり、ご機嫌をとったりする機会が少ないことだ。
正食偈には、すべての衆生が禅の喜びをもって食事をし、仏法の喜びに満たされますように、という祈りの意味が込められている。あなたの法悦(禅の喜び、仏法の喜び)はどのようなものですか?
私にとっての法悦とは、出家と禅の修行により、悪口を聞いたり、ご機嫌をとったりする量が、一般の人よりも格段に少ないことだ。この、悪口を聞いたり、ご機嫌をとったりする量をいかに減らすかが禅の職人技といえるところではないか。
今私にとっての最大の難所は、私の心の中で、昔の人の悪口を反復しているところだ。これはおそらく、私のDNAに、人間関係で生きていた時代のOSがインストールされていて「今のままでは悪口を言われて人間関係からはずされてしまうから危険だよ!」というアラートを出しているんだと思う。しかし、私は人間関係を利用して生きるというフェーズから脱して、システム(法)の中で生きることを構築していかなければならない。
Q&A
- Q: なぜ、同じ偈文でも文献によって内容や呼び名が違うのでしょうか?
- A: なぜならば、 この偈文が特定の宗派専用というよりも、広く『華厳経』の教えに基づいた実践として伝承されてきた歴史があるからです。明治期の文献をはじめ、時代や宗派、そして修行現場の運用によって、その名称や組み合わせが柔軟に選ばれてきた結果といえます。
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