粥時斎時の偈:原文と読み下し・現代語訳
粥時齋時の偈(粥時斎時の偈):食材の徳とその活用方法
要点:粥時斎時の偈とは、食物をいただく際に唱えられる偈文のことだ。一般では、食事や食事を施してくれる人に対して感謝を込めることだとされているが、それだけではなく、食材を活かすための調理をすることが仏道につながると示している。
粥時斎時の偈とは?:食物をいただく際に唱えられる偈文
粥時斎時の偈とは、食物をいただく際に唱えられる偈文のこと。
この偈文は、私の修行した道場ではなにか特別な名称があったわけではなかったので、本やサイトを色々調べてみたら、いろいろな呼び方があった。たとえば、施食偈、施食の偈、喫粥偈(きっしゅくげ)・喫齊偈(きっさいげ)などなど…。そこで、今回私の記事では、昭和時代の本を参考に「粥時斎時の偈」という名称を採用することにした。この本では、朝と昼の食事を粥時と斎時とに分け、両方合わせて粥時斎時の偈としている(参考:沢木興道 著 (1941) 『座禅の仕方と心得 : 附・行鉢の仕方』 代々木書院)。
なぜ夕食はないの?と思われるかもしれない。伝統的な禅の道場では、朝と昼しか食べないことになっている。それは不非時食戒(ふひじじきかい)という、昼以降に食べてはいけないという戒律があるからである。これを厳格に守っている国もあるが、日本ではそうでないので、薬石(やくせき)として、つまり薬だという名目で夕食をとっている。なので、夕食では上記のような偈文は唱えない。
語句解説
粥有十利とは、粥の十の功徳のことである。
粥有十利(粥の十の功徳)
・顔色や体のつやが良くなる
・身体のエネルギー・体力を補う
・寿命を養い、健康を保つ
・心身が快適になる、苦をやわらげる
・言葉が明晰になる、頭が働く
・消化が良くなる
・体内の冷え・気の乱れ・神経の不調を鎮める
・空腹を満たしすぎず、適度に満たす
・のどの渇きをとる・水分を補う
・排便・排尿の通りが良くなる
三徳六味(食物の三つの徳と六つの味)
三徳六味とは、涅槃経から引用した六味に、三徳を加えた言葉だ。
三徳とは、本来は仏教における解脱を三段階に分類したもので、法身、般若、解脱をいう。しかし、典座(てんぞ/禅の調理場)においては三徳は、軽軟、浄潔、如作法のことだ。この基準を参考に調理をする。
三徳(食物が備えるべき3つの功徳)
- 軽軟(身体に軽く負担が少ない)…修行に支障が出ない、眠気・重だるさを起こさない
- 浄潔(清浄であること)…不浄な調理、貪りの心で作られていない
- 如作法(作法にかさなっていること)…時と場所にふさわしい調理や配膳がなされている
六味(食物の六つの味)
- 甘味
- 苦味
- 辛味
- 鹹味(塩味)
- 酸味
- 淡味
涅槃経では、六味についてこう書いてある(参考:曇無讖譯 『大般涅槃經』巻第四|SAT大蔵経 No.0374)。
六味とは何かと言えば、苦味は酢(の酸味)、無常は塩(の塩味)、無我は苦味、楽は甘味、我は辛味、常は淡味(素材本来の味)のことです。
大般涅槃經卷第四
これは、六つの味を、仏教の修行のメタファーとして使っている。
つまり、粥時斎時の偈は、一般的には施主や食材を提供した人に対して、僧侶が感謝のために唱えられるといわれるが、内容を読むと、それだけではなく、食材を活かすための調理をすることが仏道につながると示すものなのだ。
核心
- 禅では、あるものを活かし、限られた環境で最善を尽くす。
- 食材を活かすための調理をすることは仏道修行である。
- 粥時斎時の偈とは、食物をいただく際に唱えられる偈文である。
私の体験談:禅の台所ではすでにある食材や人を活かす
要点:一般的な家庭と禅寺での調理場(典座)との違いは、家庭が「希望する献立が前提で食材を買ってくる」のに対して、典座では「既にある食材を活用する献立を作る」ことである。献立を決めることは、料理の腕前よりも重要である。お米は、味が淡白で、いろいろな食材に合わせられる。日本食はお米を活用した調理法だ。だから、希望する献立がなくても、あるものを活用できる人が、本当の料理人だと私は思う。
いろいろな健康情報を見ると、質素な和食が健康にはいいらしい。それで、その和食というのが由来が禅寺というものが多い。味噌、醤油、沢庵など、多すぎて紹介しきれないくらいだ。茶道の懐石料理も禅寺での食事からきている。
私も、日頃の食事はかなり質素だ。それは、調理の手間を減らしたいという理由が大きい。禅の道場では、献立を決める人と、料理をする人が違っていた。料理が上手か上手でないか以上に、献立を決めるのに上手・下手があって、これは結構重大な死活問題だった。
一般的な家庭と禅寺での調理場(典座)との違いは、家庭が「希望する献立が前提で食材を買ってくる」のに対して、典座では「既にある食材を活用する献立を作る」ことだ。
献立を作るのが上手な人は、既にある材料を活用して、わかりやすい説明で、簡単な手順で、誰でもおいしく作れる献立を作る。料理人も休憩が取れて、洗濯をしたり縫い物をしたりできる。しかし、献立を作るのが下手な人は、自分の希望する献立のために、よくわからない説明で、難しい手順で、能力のある人しかおいしく作れない献立を作る。料理人は叱られへとへとになり、休む時間もとれない。
日本の禅寺では、年功序列が絶対なので、年長者が献立係になった場合、わけわからないことを言われても、従うしかない。本当に死活問題だ。私が暮らしていた道場では、典座(料理)職は持ち回りだったのだが、古代の禅寺では、能力の高い人しか就けない要職だった。それは、このように、「食」にかかわることは死活問題だったからである。
ご飯やお粥は、味が淡白で、いろいろな食材に合わせられ、日本食はそれを活用した調理法だ。だから、希望する献立がなくても、あるものを活用できる人が、本当の料理人だと私は思う。
Q&A
- Q: なぜ「あるものを活かす」ことが典座(てんぞ)にとって重要なのですか?
- A: なぜならば、禅の修行道場では食材を買ってくるのではなく、いただきものが中心であるからです。食材や環境が制限された道場では、自らの理想の献立を追求することはできません。
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