七仏宝号(しちぶつ ほうごう):原文と読み下し・現代語訳
七仏宝号:禅と念仏の密接な関係
七仏宝号(七佛寶號)とは?:釈迦牟尼仏の前に現れたとされる七人の仏陀(過去七仏)の尊名
要点:七仏宝号とは、釈迦牟尼仏の前に現れたとされる七人の仏陀(過去七仏)の尊名をとなえることだ。七仏宝号では、釈迦牟尼仏を悟ったものの一人として相対化して唱える。
七仏宝号とは、釈迦牟尼仏の前に現れたとされる七人の仏陀(過去七仏)の尊名をとなえることだ。この七仏宝号は、嘆仏の法要の中の一番の盛り上がり場だ。この部分では、維那(お経をリードする役)に続いて全員で唱和する。今回の声明(しょうみょう)がおもしろい点は、これが念仏の一種だということと、悟った人は釈迦一人ではなくて、大勢いることだ。念仏とは、仏の名を唱える修行のことで、日本では、浄土宗のイメージが強い。
禅宗が念仏を行うなんて不思議だと思うかもしれない。というのも、念仏といえば浄土宗のイメージがあるからだ。しかしながら、禅は浄土の影響をかなり早い段階で受けている。禅宗は、日本に来る前、中国国内の浄土教と融合した。たとえば、天台宗は、栄西や道元が禅を取り入れる前からある宗派で、栄西や道元らはもともと比叡山(天台宗)で修行していた。天台宗は、「円・密・禅・戒」をすべて包含する「総合仏教」だったので、坐禅も念仏も修行の一部として扱っていた。その後、坐禅を専修する禅が、日本に伝わった。江戸時代には、中国から新しい禅である黄檗宗が伝えられ、黄檗宗は最も強く念仏を取り入れている(参考1:禅と念仏(大本山円覚寺)、参考2:禅浄一味(黄檗宗法蔵禅寺))。
仏教では、釈迦牟尼仏が開祖として焦点を当てられるが、悟った人は他にたくさんいるという点がおもしろい。釈迦牟尼仏は絶対的な教祖ではなく、数ある悟った者の一人として相対化されているのだ。大乗仏教経典の『三千仏名経』では、過去に千人、現在に千人、未来に千人の仏が出現するという。この三千人の仏の御名を唱えて罪を滅ぼすことを願う信仰がある。しかし、七仏宝号では三千人全員を唱えずに、過去と現在の代表者のみ唱える(参考:現在賢劫千仏名経を書き上げました(個人ブログ))。
七仏宝号 尊名一覧
- 毘婆尸仏(びばしぶつ) 過去998番目
- 尸棄仏(しきぶつ) 過去999番目
- 毘舎浮仏(びしゃふぶつ) 過去1000番目
- 倶留孫仏(くるそんぶつ) 現在1番目
- 倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ) 現在2番目
- 迦葉仏(かしょうぶつ) 現在3番目
- 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) 現在4番目
これらの仏を代表としてお唱えする。原典にある南無とは「帰依する」という意味である。
核心
- 禅は厳しすぎるため、坐禅の補助として念仏を取り入れてきた。
- 釈迦牟尼仏は、絶対的な人物ではなく、悟った者の中の一人にすぎない。
- 七仏宝号とは、釈迦牟尼仏の前に現れたとされる七人の仏陀(過去七仏)の尊名である。
私の体験談:念仏は雑念を消すのに坐禅よりも簡単である
禅に関心を持っている人は「禅なんだから念仏をせずに坐禅だけするべきだ」と思うだろう。しかし、私の体験では、坐禅だけで修行するのはかなり厳しい現実があるといわざるをえない。なぜならば、「坐禅だけやればいい」と言っているのは、禅師クラスまで鍛え上げられた人であって、そこまで達するのには坐禅だけでは挫折してしまうという厳しい現実に気がつくからである。
たとえば、日常生活で、どうしても雑念が浮かんでくる場合があるだろう。そうした際に、念仏は坐禅よりもより簡単に雑念を飛ばすことができる。坐禅は、坐らないとできないが、念仏は、立ったままでもできるからである。人は、一つのことを同時にできないと言われている。ふと雑念が湧いたときに、念仏や、お経を唱えることで、雑念を消すことができるのである。
Q&A
- Q: なぜ七仏宝号では未来の仏は唱えないのですか?
- A: なぜならば、禅では将来仏になるのは自分自身だからです。しかしながら、まったく唱えないわけではありません。たとえば、南無三世諸仏として「三世(過去・現在・未来)一切の諸仏」とまとめて唱えたり、食事の際に「当来下生弥勒尊仏」として未来の仏である弥勒菩薩を唱えます。
AIコメントを読む前の心の天気は?
AIコメントを読んだ後の心の天気は?