欲は修行において乗り越えるべき関門だと言われているが、禅では体系的な記述は少ない。
どうして、禅では言葉によって、体系的にまとめられることがないのだろうか。
今回は従容録第十三則臨済瞎驢を読んでいく。
Summary:If one engages in the practice of zazen, a verbal system of teachings becomes unnecessary.
Rinzai’s method was not to explain with words, but to show the truth directly through actions.
For Rinzai, a shout, called a katsu, was a way to show the working of the Buddha’s teaching right away.
It breaks thinking, destroys distinctions, and shows the truth of the moment.
It is an act that expresses the working of the mind before words, instantly.
臨済の方法は、言葉で説明するのではなく、行動によってはたらきを直ちに示すというものだった
臨済がまさに入滅を示そうとして、三聖に言い残した。
臨済:俺が遷化(死去)したあと、俺の正法眼蔵を滅ぼすなんてことするなよ。
三聖:どうして和尚の正法眼蔵を滅ぼしたりするでしょうか。
臨済:もし突然、誰かが現れてお前に『それはどういうことか』と問うてきたなら、どう答えるつもりだ。
三聖:喝!
臨済:誰が知ろうか。俺の正法眼蔵が、このめくら驢馬のやつのところで滅ぼされるとはな。
臨済義玄は臨済院に住んでいて、幼少の頃に出家し、最初は教学に励んでいたが、教学を捨てて禅を希望し、諸国行脚に出て、黄檗希運禅師のもとで修行し、興化寺で遷化(死亡)している。
睦州和尚のすすめで黄檗に仏法の大意を問い、三度問いて三回打たれたので高安大愚を訪ね大悟し、再び黄檗のもとへかえって法嗣(法を嗣ぐこと)となった(従容録第八十六則)。
臨済の門下には優秀な者が多く、今では臨済宗として日本にも伝えられている。
そして、臨済は臨済院を去ったあと興化(こうげ)寺で、臨終した。
その際の、高弟である三聖(さんしょう)との問答が本則である。
三聖は、数々の名僧との問答において抜群の鋭機を示していることが語り継がれているものの、どんな人であったかはよくわかっていない。
この則では、臨済は臨際と書かれており、これは臨済の死に際を表現している。
この問答は、臨済の臨終での問答だ、という特別な問答であることを示している。
さて、本則に入る前に、正法眼蔵の解説をしておこう。
正法眼蔵とは、宇宙の真理であり、天地自然のはたらきのことだ。
正しいとか間違っていると考えるのはわたしたちであって、天地自然そのものにはそのようなものはないので、「正」とは、かたよっていないという意味である。
天地自然は万物一体、如々平等で秩序整然な法則に保っているので、「法」とは、わたしたちが則るべき教えや決まりのことである。
天地自然は平等即差別、差別即平等で、體(本体)、相(現れ)、用(はたらき)からして、一つも昧ますことなく、すべてのものが、何重にもつながり合い、おたがいに関わり合っているので、「眼」とは、物事をはっきり見分ける力をいう。
天地自然は、このようなはたらきをそのまま含藏しているので、「藏」とは、大切なものを中におさめて守っているという意味である。
つまり「正法眼蔵」とは、この正しい教えと見方を、欠けることなく大切に保っているものということである。
このはたらきを体現したのを仏陀といい、仏陀は拈華(ねんげ)して摩訶迦葉が微笑(みしょう)したところに、正法眼蔵、涅槃妙心(正法眼蔵の智慧の体験や境地そのもの=苦しみや迷いから離れ、自然と調和した深い智慧と平安の心)が伝えられたといい、それが達磨から臨済まで伝わってきた。
それでは本則へ入ろう。
「俺が遷化(死去)したあと、俺の正法眼蔵を滅ぼすなんてことするなよ。」
三聖は「はい、和尚の仏法をなんで滅ぼすことなんてするんでしょうか」と口では言うものの、自信がなくてびくびくしながら言っている。
そもそも、正法眼蔵は天地自然のはたらきだから、滅びるものではない。
それで、臨済は「もし突然、誰かが現れてお前に『それはどういうことか』と問うてきたなら、どう答えるつもりだ。」と詰める。
俺の仏法を滅ぼさないと大口をたたくが、それでは誰かに、臨済の仏法とはと聞かれたらなんと答えるか言ってみよ、というわけだ。
この状況で、うっかり答案を出したら、ひどいめに合うぞ、猛虎の口中に飛び込むくらい危険だ。
そこで、三聖は「喝!」と叫んだ。
喝とは、臨済にとって、仏法のはたらきをその場で示す表現だ。
これは、思考を断ち切り、分別を破り、その場の真実を示す。
つまりは、言葉以前のはたらきを、瞬間的にあらわす行為だ。
臨済は三聖の一喝を聞くと、「誰が知ろうか。俺の正法眼蔵が、このめくら驢馬のやつのところで滅ぼされるとはな。」と怒鳴って死んでいった。
あぁ、俺の仏法はこの大バカ野郎のところで滅ぼされるな、というわけだ。
これはどういうことなのだろうか?三聖の答えではだめだったということだろうか。
万松によれば、これは実は絶対的賞賛であるのだという。
禅では、罵倒して、かえってそれが褒め言葉だったということはよくある。
この三聖の一喝は、正法眼蔵とは何かを説明する答えではなく、その場においてはたらきがただちに示された応答であった。
そもそも正法眼蔵とは、滅却するかしないかという対象ではない。
釈迦より伝えられてきた法は、守るべきものとして外に置かれるものではなく、その都度のはたらきとして現れるものである。
三聖の一喝に、臨済はそのはたらきを見て取り、あえて罵倒の言葉をもってこれを許したのである。
私の体験談
欲は修行において乗り越えるべき関門だと言われている。
しかし、禅の書では、言葉以前のはたらきや、社会的概念の突破ばかり語られていて、欲に関しての体系的な記述は少ない。
私は、私の修行経験から、禅宗において欲について詳しく語られないのは、欲の大部分が社会から飛来したものであり、実際に自分の内側から起こる欲望はかなり小さいものであって、出家・持戒・坐禅という行動で対処できてしまうからだということに気がついた。
このように、坐禅という行動で済んでしまうものであるから、そもそも言葉による体系は不要なのである。
まとめ
喝は、臨済にとって、仏法のはたらきをその場で示す表現だった。
これは、思考を断ち切り、分別を破り、その場の真実、つまり言葉以前のはたらきを瞬間的にあらわすものだ。
三聖の一喝は、言葉以前のはたらきを瞬間的にあらわすことができたから、臨済は認めたのだ。
このように、禅では、言葉以前のはたらきや、社会的概念の突破ばかり語られていて、体系的な記述は少ない。
私は自身の体験から、禅宗において欲について詳しく語られないのは、欲の大部分が社会から飛来したものであり、実際に自分の内側から起こる欲望はかなり小さいものであって、持戒や坐禅という行動で対処できてしまうからだということに気がついた。
よくある質問
問一. 道元の正法眼蔵では言葉で体系化していますよね。
はい。しかし、それは行の意味を伝えるための言葉であり、真理のそのものを言語化したわけでは有りません。
百聞は一見にしかずというように、自分で体験することにはかないません。
問二.喝について、ただいうのと、仏法のはたらきをあらわすのとではどう違うのですか。
ただ叫ぶのは単なる音に過ぎませんが、臨済の喝は、思考や分別を断ち切り、その場で真理を体現したといいます。
実際に聞いてみなければ、本当のところは体験できませんね。
問三. 悟りを開いた人には一切欲望がないのですか?
完全に消滅するわけではありません。
欲望に執着せず、自然の働きとして受け流すことが可能になります。
心が欲に縛られない状態を指すのが悟りです。
問四. 言葉以前の仏法のはたらきとはなんですか。
思考や言語を介さず、心や行動に即時に現れる真理の働きです。
ホモ・サピエンスが言葉や概念を獲得する前から、真理はこの世界にはたらいていました。
坐禅や喝を通じて体験され、理論や概念を超えた実感として示されます。
問五. 持戒や坐禅にって、どのように欲望に対処するのですか。
出家は、社会から出ることで、社会から来る欲望を減らします。
持戒は行動の規範として欲望の広がりを抑えます。
坐禅は心を観察し、欲望が生じても執着せず手放す訓練です。
これらにより、欲は自然に調整されていきます。
より簡単に絵本にしました
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参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2026年3月13日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
