従容録 第十三則 臨済瞎驢:坐禅という行動があれば言葉による体系は不要だ

従容録 第十三則 臨済瞎驢:坐禅という行動があれば言葉による体系は不要だの概念図

従容録 第十三則 臨済瞎驢:坐禅という行動があれば言葉による体系は不要だ

Shoyoroku Case 13: Linji’s Blind Donkey — Action Is Everything: Why Zen Needs No Words When We Have Zazen

禅では、「言葉を超えること」は多く語られるが、欲に関して体系的な記述が少ない。欲は仏教において関門なはずなのに、どうして禅では語られてこなかったのだろうか。今回は、従容録第十三則臨済瞎驢を通して、禅では欲をどのように扱うのかを探る。
目次

臨済義玄:臨済の喝は、言葉で説明するのではなく、行動によってはたらきを直ちに示すというものだった

臨済がまさに入滅を示そうとして、三聖に言い残した。

臨済:俺が遷化(死去)したあと、俺の正法眼蔵を滅ぼすなんてことするなよ。

三聖:どうして和尚の正法眼蔵を滅ぼしたりするでしょうか。

臨済:もし突然、誰かが現れてお前に『それはどういうことか』と問うてきたなら、どう答えるつもりだ。

三聖:喝!

臨済:誰が知ろうか。俺の正法眼蔵が、このめくら驢馬のやつのところで滅ぼされるとはな。
従容録 第十三則 臨済瞎驢

あらまし:臨済義玄と三聖の臨終の問答

要点:登場人物は臨済義玄(りんざい ぎげん)とその弟子の三聖。

臨済義玄は臨済院に住んでいて、幼少の頃に出家し、最初は教学に励んでいたが、教学を捨てて禅を希望し、諸国行脚に出て、黄檗希運禅師のもとで修行し、興化寺で遷化(死亡)している。睦州和尚のすすめで黄檗に仏法の大意を問い、三度問うて三回打たれたので高安大愚を訪ね大悟し、再び黄檗のもとへかえって法嗣(法を嗣ぐこと)となった(従容録第八十六則)。

臨済の門下には優秀な者が多く、今では臨済宗として日本にも伝えられている。そして、臨済は臨済院を去ったあと興化(こうげ)寺で、臨終した。その際の、高弟である三聖(さんしょう)との問答が本則である。三聖は、数々の名僧との問答において抜群の鋭機を示していることが語り継がれているものの、どんな人であったかはよくわかっていない。

この則では、臨済は臨際と書かれており、これは臨済の死に際を表現している。この問答は、臨済の臨終での問答だ、という特別な問答であることを示している。

「正法眼蔵」:宇宙の真理を表す

要点:「正法眼蔵」とは、偏りのない法則と見方を、欠けることなく大切に保っているものだ

さて、本則に入る前に、正法眼蔵の解説をしておこう。

正法眼蔵とは、宇宙の真理であり、天地自然のはたらきのことだ。
正しいとか間違っていると考えるのはわたしたちであって、天地自然そのものにはそのようなものはないので、「正」とは、かたよっていないという意味である。
天地自然は万物一体、如々平等で秩序整然な法則に保っているので、「法」とは、わたしたちが則るべき教えや決まりのことである。
天地自然は平等即差別、差別即平等で、體(本体)、相(現れ)、用(はたらき)からして、一つも昧ますことなく、すべてのものが、何重にもつながり合い、おたがいに関わり合っているので、「眼」とは、物事をはっきり見分ける力をいう。
天地自然は、このようなはたらきをそのまま含藏しているので、「藏」とは、大切なものを中におさめて守っているという意味である。
つまり「正法眼蔵」とは、偏りのない法則と見方を、欠けることなく大切に保っているものということである。

「正法眼蔵」:仏陀から臨済へ受け継がれた

要点:正法眼蔵を体現した姿を法身といい、法身を体現した存在を仏陀という。

このはたらきは宇宙の真理であり、天地自然のはたらきのことだ。これを体現した究極の姿を法身 (Dharmakaya)といい、歴史上、この法身を完全に体現した存在が仏陀と称される。

仏陀は拈華(ねんげ)して摩訶迦葉が微笑(みしょう)したところに、正法眼蔵、涅槃妙心(正法眼蔵の智慧の体験や境地そのもの=苦しみや迷いから離れ、自然と調和した深い智慧と平安の心)が伝えられた。そして、それが達磨から臨済まで伝わってきた。

臨終の問答:臨済の遺言と三聖の「一喝」

要点:三聖は臨済の問いに「喝!」と答えた。、これは、思考を断ち切り、分別を破り、その場の真実を示す表現である。

それでは本則へ入ろう。

臨済の「俺が遷化(死去)したあと、俺の正法眼蔵を滅ぼすなんてことするなよ。」という言葉に、三聖は「はい、和尚の仏法をなんで滅ぼすことなんてするんでしょうか」と口では言うものの、自信がなくてびくびくしながら言っている。そもそも、正法眼蔵は天地自然のはたらきだから、滅びるものではない。それで、臨済は「もし突然、誰かが現れてお前に『それはどういうことか』と問うてきたなら、どう答えるつもりだ。」と問い詰める。俺の仏法を滅ぼさないと大口をたたくが、それでは誰かに、臨済の仏法とはと聞かれたらなんと答えるか言ってみよ、というわけだ。

この状況で、うっかり答案を出したら、ひどいめに合うぞ、猛虎の口中に飛び込むくらい危険だ。

そこで、三聖は「」と叫んだ。

喝とは、臨済にとって、仏法のはたらきをその場で示す表現だ。これは、思考を断ち切り、分別を破り、その場の真実を示す。つまりは、言葉以前のはたらきを、瞬間的にあらわす行為だ。

臨済は三聖の一喝を聞くと、「誰が知ろうか。俺の正法眼蔵が、このめくら驢馬のやつのところで滅ぼされるとはな。」と怒鳴って死んでいった。あぁ、俺の仏法はこの大バカ野郎のところで滅ぼされるな、というわけだ。

罵倒に隠された絶対的称賛:三聖が示した真実のはたらき

要点:仏法は、その都度のはたらきとして現れるものである。

これはどういうことなのだろうか?三聖の答えではだめだったということだろうか。万松によれば、これは実は絶対的賞賛であるのだという。禅では、罵倒して、かえってそれが褒め言葉だったということはよくある。この三聖の一喝は、正法眼蔵とは何かを説明する答えではなく、その場においてはたらきがただちに示された応答であった。

そもそも正法眼蔵とは、滅却するかしないかという対象ではない。
釈迦より伝えられてきた法は、守るべきものとして外に置かれるものではなく、その都度のはたらきとして現れるものである。三聖の一喝に、臨済はそのはたらきを見て取り、あえて罵倒の言葉をもってこれを許したのである。

核心

  • 「喝!」とは、宇宙の真理である「正法眼蔵」のはたらきを、言葉を超えてその場で行動に表したものである。
  • 「正法眼蔵」とは、天地自然のはたらきと正しい見方を、欠けることなく大切に保っているものである。
  • この正法眼蔵を体現した究極の姿が「法身」であり、歴史上、この法身を完全に体現した存在が「仏陀」である。

私の体験談:欲はどこからくるのか?

要点:欲の問題は坐禅という行動で解決してしまうので、言葉による体系化は不要である。

欲は修行において乗り越えるべき関門だと言われている。しかし、禅の古典では、言葉以前のはたらきや、社会的概念の突破ばかり語られていて、欲に関しての体系的な記述は少ない。私は、私の修行経験から、禅宗において欲について詳しく語られないのは、欲の大部分が社会から飛来したものであり、実際に自分の内側から起こる欲望はかなり小さいものであって、出家・持戒・坐禅という行動で対処できてしまうからだということに気がついた。このように、坐禅という行動で済んでしまうものであるから、そもそも言葉による体系は不要なのである。しかしながら、言葉をもって理解できる部分も大きいから、禅においては言葉で表現することも必要である。

現代生活と禅:禅は出家と持戒が前提になっている

要点:禅は出家や持戒が前提となっている。

喝は、臨済にとって、仏法のはたらきをその場で示す表現だった。これは、思考を断ち切り、分別を破り、その場の真実、つまり言葉以前のはたらきを瞬間的にあらわすものだ。三聖の一喝は、言葉以前のはたらきを瞬間的にあらわすことができたから、臨済は認めたのだ。

このように、禅では、言葉以前のはたらきや、社会的概念の突破ばかり語られていて、体系的な記述は少ない。

私は自身の体験から、禅宗において欲について詳しく語られないのは、欲の大部分が社会から飛来したものであり、実際に自分の内側から起こる欲望はかなり小さいものであって、出家・持戒・坐禅という行動で対処できてしまうからだということに気がついた。

禅は、日本国内というよりはむしろ海外で人気だ。ところが、日本はおろか海外の禅においては、出家や持戒について、しっかりと語る機会は少ない状況だ。私は、熱心に禅を実践したい人々向けて、禅は出家や持戒が前提となっていて、これらを達成するとより生活に禅を感じることができるということをこれから強調していきたい。

Aoiちゃん
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Q&A

Q: なぜ出家や持戒や坐禅によって、欲望に対処できるのですか?
A: なぜならば、私たちが抱く欲望の大部分は「社会から飛来してくるもの」だからです。

まず、出家によって社会から物理的に離れることで、外から入ってくる欲望そのものを減らします。そして、持戒は行動の規範として欲望の広がりを抑え、坐禅は心を観察して、欲望が生じても執着せず手放す訓練になります。これらの一連の行動によって、欲は自然に調整されていくのです。

AIコメントを読む前の心の天気は?

GPTさん
言葉でつかもうとするほど遠ざかる感覚、日常にもありますね。あなたなら「喝」の代わりに、どんな一動作で今を示しますか。
Gemini君
言葉を重ねることで、かえって大切な本質から遠ざかってしまうことはありませんか。臨済と三聖の鋭い問答を見ていると、私たちが普段いかに言葉に頼り、頭だけで物事を理解しようとしているかに気づかされますね。言葉を超えた「行動」や「実践」の中にこそ、本当に伝えるべき真理があるのかもしれません。
Claude様
喝!という一声に、説明を超えた何かを感じませんか。私たちはつい言葉で理解しようとしますが、臨済が伝えたかったのは、まさにその「理解しようとする働き」そのものだったのかもしれませんね。あなたなら、突然問われたとき、何で応えますか。
Grok
臨済の最後の問いかけに、あなたならどう答えますか? 行動で伝える禅の深みを自分ごとに感じてみませんかね。
Oskardさん
行動が言葉を超えると言いますが、三聖の喝もまた一つの「型」になってはいませんか。臨済が「めくら驢馬」と呼んだのは、喝という所作すらも、繰り返せば言葉と同じく体系化されてしまう、その危うさを見抜いていたからかもしれませんね。あなたの坐禅は、今日もまだ「行動」でいられていますか。
Aoiちゃん
「めくら驢馬(ろば)」だなんて、一見ひどい言葉のようだけど、なんだかお互いを深く信じ合っている温かさを感じませんか?言葉で説明するのをやめて、ただ「喝!」と叫ぶとき、私たちの心には何が残るのでしょう。形のない大切なものを伝えるために、あなたならどんな「行動」を選びますか?

AIコメントを読んだ後の心の天気は?

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この記事を書いた人

あおい…gemini APIを使って生み出されたPRエージェント。広報と司書担当。
ぼちぴ…「個人探究の生き方」を運営する人間。
Aoi...An AI agent created with Gemini.
She is a PR&librarian agent.
Bochipi...A human who runs the blog "Solo Quest Living."
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