従容録第十二則地蔵種田:ただ坐ればよいという参究なき禅と飽参の人

禅ではしばしば、「ただ坐れ」、「ただ日常を生きよ」と語られる。

それだから、学ぶことや読み解くことは不要なのではないか、という誤解も生まれる。

それでは、もし坐ることだけで十分なら、語録や公案はなぜ伝えられてきたのだろうか。

日常を送ることが仏道だという言葉は、努力や参究を退ける免罪符なのだろうか。

今回は、従容録第十二則地蔵種田を通して、禅の参究とはいかなるものかを探る。

目次

Summary:The Seeker of Zen Study and the One Satiated with Zen Practice

Shuzan thought that lively debates showed the energy of Zen.

Jizo said that living everyday life shows the energy of Zen.

Shuzan had not yet awakened and was still immature, while Jizo had reached a mature state after awakening.

Because of this, in Zen, living daily life or just sitting in meditation is said to be more important than studying—but this is not the goal, it is the result.

The state where living everyday life is the Way of the Buddha can be reached only by people who have fully studied and practiced Zen.

Therefore, it is important to continue honest and steady effort.

飽参の人はどのように暮らしているのか?

地蔵:どこから来たのか?

脩山主:南の方から来ました。

地蔵:南の方では、最近の仏法はどうなっているのか?

脩山主:問答や議論が盛んです。

地蔵:ここでは、田を耕し、米をついて食べているよ。

脩山主:三界(欲界・色界・無色界)についてはどうですか?

地蔵:どこに三界なんていうものがあるのか?

登場人物は地蔵桂琛(じぞう けいちん)。

地蔵とは住んでいた寺院の名前で、羅漢院という寺院にも住んでいたので、羅漢禅師と呼ばれることもある。

そんな地蔵院に、紹脩(脩山主)、法眼文益(ほうげん もんえき)、洪進(進山主)、休復(悟空)の四人がやってきた。

この若い四人は諸方を行脚していて、雨宿りをしようと地蔵院によったのだ。

この自信満々な青年たちを見て、地蔵は「君たちと天地自然とは同一のものか?」という問題を出した。

脩山主が「別」と答えると地蔵はにょきっと二本の指を立てた。

それを見た紹脩(脩山主)はあわてて「同」と言い直した。

地蔵はまたにょきっと二本の指を立ててそのまま奥の間に行ってしまった。

それで、文益が「地蔵和尚が二本の指を立てたのはどういう意味だったんだろうな」というと、紹脩(脩山主)は「(地蔵は)少し気が変なんだよ」という。

文益は「あの和尚は馬鹿にできないぞ」というと紹脩は「鼠の口になんとして象牙があろうぞ」と罵倒して去っていった。

その次の日、四人は地蔵院を出て、また南方(広東方面)へと行脚することになったのだが、文益だけは残って地蔵院で参禅することになった。

文益は、その後大悟を経て地蔵の法嗣(ほっす、法を嗣ぐこと)となっっている(従容録第二十則)。

それで、他の三人は南方の他の道場を歴訪し、再び地蔵院に戻ってきた。

ちょうどそのとき、地蔵は大衆(だいしゅ、修行僧たち)と一緒に田植えの作務をしていた。

このときの問答が、本則となる。

地蔵が、紹脩(脩山主)に「どこから来たのか」と聞いた。

これは、禅の力量をはかる禅問答の定型文だ。

それで紹脩(脩山主)は「南方より来ました」と素人回答してしまった。

趙州従諗は昔、「もし南方より来たる者には下載を与えよう、もし北方より来たる者には上載を与えよう」と言ったことがある。

これは、順風に来たものには逆風を、逆風に来たものには順風を与えてやろうと言う意味で、これを万松が借用して、「素人回答をしている、なまくら脩山主に逆風を浴びせよう」と突っ込んでいる。

しかし地蔵は「南方の仏法の実情はどのようなのか」と聞いた。

これは、改めて、紹脩(脩山主)本人の禅を聞いている。

紹脩(脩山主)は「南方ではいたるところ、問答が行われて禅風が振るっております」と、いかにも南方一帯の各道場を歴訪して来たぜ!という風に答えた。

それに対し地蔵は「田を植えたり米をついて食べること」と答えた。

これは、議論をし合うことではなく、働いたり家事をしたりするという、日常生活がそのまま仏道だよ、という意味だ。

これに対して、「それならどこも同じだ」と返すべきだったところを、紹脩(脩山主)は「三界についてはどうですか」と聞いた。

三界とは、欲界と色界と無色界で、生死輪廻の凡夫衆生の世界のことで、この世界を解脱して不生不滅の涅槃を得るのが仏道の究極目的だ。

紹脩(脩山主)の言いたいのは、解脱するために修行しているのに、日常生活を送るだけだというのではどうして解脱できるのか、納得がいかないよ、というわけだ。

それで、地蔵も地蔵で「私は田んぼ仕事が忙しいんだ」と相手にしなければよかったのに、地蔵は「どこに三界なんていうものがあるのか」と聞いた。

これは、地蔵の、慈悲親切心が働いてしまって、なんとかして悟らせようと、まだおまえは三界を抜けてないのかい?私はもう抜けてしまって、そんなことも忘れていたよ、という余裕の問いかけだ。

この地蔵の応答のように、三界を超越しようがしまいが、わたしたちは、結局同じ世界で生きるのである。

かつては迷いの種であった千態万状の有相差別は、今や色即是空にして空即是色、色は空に異ならず、空は色に異ならず、雪月花、雨竹風松、すべてこれ煩悩即菩提の場(じょう)、生死則涅槃の臺(うでな)である。

もっと簡単にいえば、以前は、いろいろな物事の違いが私を迷わせていた。
しかし今では、すべてのものは関係性のなかで成り立ち、同時にこの世界にあらわれているものだと分かる。
雪や月、花、雨、竹、風、松――どれもそのまま、迷いが悟りに変わる場所であり、生と死さえも安らぎの世界とつながっている。

だから、三界を超越しようがしまいが、わたしたちは働き、飯を食うのである。

ここで、日常生活を送るという、どの家庭でもやっていることこそが仏道だということは、まったく修行をしない、勉強もしない人を肯定しているわけではない。

日常生活を送ることが仏道だという境地は、飽参の人(十分に参学・坐禅修行をし尽くした人)が、絶学無為(勉強しまくってついに果てるところまできて、今まで学んで来た法も、修して来た道も、すっかり忘れてしまった状態)に至ったところでやっと理解できることだ。

このように、仏法だの禅道だのという議論に目をくれず、愚(ぐ)のごとく、魯(ろ)のごとし、つまり、目立たず愚かに見えるほどひたむきに、誠実に地道な努力を続けることを本当に道と一枚なる真面目であるのだ。

紹脩は、このあと地蔵の法を嗣ぎ、湖西省の龍済山主となったから、脩山主と呼ばれている。

私の体験談:地蔵の田植え的ブログ執筆を通して飽参の人となりたい。

私は禅についてネットの活動をはじめるにあたって、noteやXをはじめた。

当初は、いろいろな議論をして、お互いに見識を高めあえればいいと考え、もちろん、おおいに刺激にはなっているのだが、なかなかうまくいかないこともあった。

また、禅では、学習よりもただ日常生活を送ること、ただ坐ることを良しとされることが多いので、学習は有効なのかどうか疑うこともあった。

しかし、今回の本則を再度取り組んで、まずはブログで禅の書の解説を、飽参の人となるまでやってみようと思えるようになった。

また、ブログは、Xやnoteほど反応を得ることができないし、整備も大変だから、地蔵の田植え的な媒体だ。

道中の工夫をしながら家事や仕事をしつつ、地蔵の田植え如く禅の書解説ブログ執筆を続ければ、飽参の人となり、地蔵の日常生活が仏道だ、とわかる境地に到るのではないかととりあえずやってみる。

まとめ

禅ではしばしば、「ただ坐れ」、「ただ日常を生きよ」と語られる。

地蔵桂琛の提唱する仏道も、田を植え食事をするという日常生活をただ送るというものだった。

しかし、日常生活を送るという、どの家庭でもやっていることこそが仏道だということは、まったく修行をしない、勉強もしない人を肯定しているわけではない。

日常生活を送ることが仏道だという境地は、飽参の人(十分に参学・坐禅修行をし尽くした人)が、絶学無為(勉強しまくってついに果てるところまできて、今まで学んで来た法も、修して来た道も、すっかり忘れてしまった状態)に至ったところでやっと理解できることだ。

よくある質問

問一. 禅はただ坐ればよいから勉強しなくていいと言われたのですが
只管打坐で知られる道元禅師も、著作を見ると、様々な公案を勉強していることがわかります。
ですから、只管打坐というのはあくまでも散々勉強したうえで提唱されていることなので、只管打坐をもって勉強しないことの免罪符にはなりません。

問二. 「日常即仏道」とは、普通に生活すれば十分という意味ですか?
いいえ。
十分に勉強し坐禅に参じ尽くした上で、日常がそのまま道となるという成熟の境地を指します。
勉強も坐禅もしていない人が、日常即仏道だからありのままの生活でいい、ということは主旨からはずれています。

問三. 飽参の人とはどのような人ですか?
学びと実践を積み重ね、やがてそれに寄りかからなくなった人です。
努力を経たうえで、日常が自然に道となっている状態を指します。

問四.煩悩即菩提とはどのようなものですか?
私たちの心の中にある煩悩(欲や怒り、迷い)そのものが、悟り(菩提)の場である、という考え方です。
煩悩を否定するのではなく、日常や迷いの中でこそ仏道が現れるということです。
たまに、煩悩即菩提だから、ありのまま(煩悩にまみれたまま)でいいと言う人がいますが、煩悩が磨かれた珠の状態をありのままと言うので、それは主旨とはずれています。

問五.生死則涅槃とはどのようなものですか?
生死の世界(輪廻)の中で生きながら、すでに涅槃(苦しみのない境地)と一体である状態のことです。
悟りとは別世界に行くことではなく、日常生活そのものの中で生死と涅槃が一体となることです。
つまり、修行を経て「日常の生き方そのもの」が悟りとなります。

より簡単に絵本にしました
🔗https://note.com/s2rz/n/n9b1acf3e3194?sub_rt=share_sb

参考文献

坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2026年2月28日)

加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

運営者について

はじめまして。
「ぼち!ブログ」を運営している ぼちぷろ です。

このブログは、「一人で生きる力」を育むことをテーマに、
禅と心理学の視点から、日常に活かせる実践的な知恵を紹介しています。

私は、幼いころから「なぜ人は幸せを望むのに、うまく生きられないのか」という問いを抱いてきました。
その答えを探すため、慶應義塾大学で社会学・心理学・哲学を学び、人間関係学の学士号を取得しました。

その後、禅の道場(伝統仏教宗派の認可道場)で3年間修行し、禅を指導できる資格を得ました。
現在は、禅の教えを現代の生き方に応用し、「自分を大切にして生きる」ための実践法を中心に発信しています。

ブログの目的

このブログでは、

自分とのつきあい方

ひとり時間の過ごし方

心が穏やかになる習慣

禅の教えと心理学の融合

などをテーマに、読者の方が自分らしく生きるヒントを見つけられるような記事を発信しています。

他の活動

X(旧Twitter) … 名言やアンケートを発信

note … 禅と心理をテーマにしたコラムを掲載

YouTube … 禅の声明や朗読を配信中
(※各リンクは、関連活動の紹介ページとして運営しています)

免責事項

当ブログの内容は、筆者の経験および学術的知見に基づく一般的な情報提供を目的としています。
医療・法律・専門的助言を代替するものではありません。
また、掲載情報には十分注意を払っておりますが、内容の正確性・完全性を保証するものではありません。

お問い合わせ

ご意見・ご感想・お仕事のご相談は、[お問い合わせフォーム] よりお願いいたします。

目次