転読大般若祈祷(てんどくだいはんにゃきとう):差定(順序)
転読大般若:身口意の実践により即身成仏する
要点:転読大般若とは、『大般若波羅蜜多経』を転読することで読誦したこととする伝統的な祈祷法要だ。大般若とは、大般若波羅蜜多経のことで、このお経は、唐時代に玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)がインドから持ち帰り翻訳した。禅は真言密教から祈祷を取り入れた。真言密教の祈祷では、戒を守る力と坐禅による精神集中力により、仏や護法の神々による加護を得るということになっている。修行者の祈祷に参加して功徳を回向してもらうことが一般的だが、大切なのは、自ら坐禅をし、戒を守り身口意を修行することだ。
転読大般若とは?:膨大な『大般若波羅蜜多経』を転読することで読誦したこととする伝統的な祈祷法要
大般若とは、大般若波羅蜜多経のことで、このお経は、中国の唐時代に玄奘三蔵法師(げんじょうさんぞうほうし)がインドから持ち帰り翻訳したお経だ。三蔵法師は、当時の中国で、人によって言っていることが違うことに疑問を持ち、国から出てはいけないという国禁を犯し、のちに太宗皇帝の保護を受けてインドまで経典をとりに出かけた。この史実がもとになって、西遊記が作られた。
そして、西暦663年に、玄奘三蔵が翻訳を終えて供養を行った。これが大般若会の起源とされている(出典:『大唐大慈恩寺三藏法師傳』巻第十(唐・沙門慧立撰、釋彦悰箋)|SAT大蔵経 No. 2053)。
日本へは西暦703年に大般若経を転読するように命じたという記録が残されている。これが、日本における転読大般若のはじまりだとされている(出典:『続日本紀』巻3-4(国立公文書館所蔵、請求番号:特084-0002-0002、https://www.digital.archives.go.jp/img/3988570#5)。
転読大般若:転読大般若祈祷について
大般若経は六百巻もあり読むのが大変なので、部分的によんで、あとは転読といってぱらぱらと繰ってお経をよんだことにする。
祈祷法要では、導師(祈祷の主体の人)は、坐禅を組み、印を結んで、真言を唱え、身口意により仏との合一をはかり、大般若経の第五百七十八巻(理趣分、りしゅぶん)を読む。周りの随喜(参加)僧は、他のお経(全部で六百巻)を読む。この大般若経を読むことで、十六善神などの神々の守護を受けることができ、災難を逃れたり、諸願成就につながるとされている。十六善神とは、大般若経とその経典を唱える人々を守護する善神で、この中には西遊記に出てくる沙悟浄のモデルになった深沙大将もいる。
今回の儀式では、理趣分を読む前後に護身法という作法をする。これは、災難から守るための方法だ。よく、忍者が印を結ぶが、それはここからきている。
最後に消災妙吉祥陀羅尼を唱える。これはあらゆる災難を取り除き、真の幸福(吉祥)をもたらすことを願う仏教の呪文(陀羅尼)だ。今回の儀式では、私一人しかいないため、六百巻読むのが無理なので、理趣分の一部だけ読誦し、転読した。この祈祷法要は、宗派や寺院によってやりかたが部分的に異なるため、それぞれが勉強しないとならない。
転読大般若祈祷:理論について
禅宗は祈祷を真言密教から取り入れた。そこで、真言密教の祈祷はどのように成り立っているかを簡単に紹介したい。
真言密教は、弘法大師空海が中国から持ち帰り大成させた仏教の一派だ。印(いん)を結び(身)、真言(しんごん)を唱え(口)、心で仏を観想する(意)、身口意(しんくい)の実践を通じて、即身成仏(そくしんじょうぶつ)、つまり、この世で仏になるを目指す。
また、真言密教の祈祷では、戒力(かいりき)、つまり戒を守る力と禅定力(ぜんじょうりき)、坐禅による精神集中力により、加持力(かじりき)、つまり仏や護法の神々による加護を得るということになっている。だから、霊感のような、生まれつきの能力はいらずに、修行により、加持力を得ることができる。昔から、この加持力により悪霊や災難などを降伏(ごうぶく)することができるとされ、僧侶に依頼があった。
日本では、修行者の祈祷に参加して功徳を回向(振り向け)してもらうことが一般的だが、本来は自分で修行することが必要だ。また、大般若理趣分には、読誦・受持することで、功徳と菩薩の加護が説かれているが、いちばん大切なのは、自ら坐禅をし、戒を守り身口意を修行することだ。
核心
- 戒を守る力と坐禅による精神集中力により、仏や護法の神々による加護を得ることを祈祷という。
- 大般若とは、大般若波羅蜜多経のことで、唐時代に玄奘三蔵法師がインドから持ち帰り翻訳した。
- 転読大般若とは、『大般若波羅蜜多経』を転読することで読誦したこととする伝統的な祈祷法要だ。
私の体験談:努力の先の祈るしかない状況
要点:祈祷とは、努力をせずにお金で解決するサービスではない。日ごろから坐禅をして集中力を養い、持戒することが、厄災を払い仏道を成就する、すでに祈祷法要なのである。
日本では、祈祷法要というと、お金を払ってサービスを受けるというイメージが強い。正直私は、子供の頃から「これは詐欺ではないか?インチキ商売ではないか?」と思っていた。
修行道場にいたときに、自分の努力ではどうにもならない状況になって、「あぁ、なるほど。一生懸命努力してそれでもどうしようもなくなって、祈るしかない状況なんだな」ということがわかった。
たとえば、寺院や神社では、交通安全の祈祷法要をやっている。どんなに交通安全に気をつけて万全を期していても、突然暴走車が突っ込んでくるかもれないし、隕石が落ちてくるかもしれない。これはもう努力ではどうにもならない。これが、祈祷の範疇になるのであって、何も努力してないけれどお金を払えば交通安全が叶うというのは誤解なのだ。
おもしろいことに、日ごろから坐禅をして集中力を養い、持戒して飲酒を控えていると、交通安全に大きく寄与することができる。祈祷というのは、お金を払って人にやってもらうからうさんくさいのであって、本質を考れば合理的なのだ。つまり、坐禅をし、持戒することが、厄災を払い仏道を成就する、すでに祈祷法要なのである。
Q&A
- Q: なぜ、坐禅と持戒が交通安全などの現実的な利益につながるのですか?
- A: なぜならば、坐禅によって養われた高い集中力が、普段の行動や判断に冷静さをもたらすからです。また、戒律を守ることで不摂生や悪習慣を断つことは、結果として心身の安定を招き、周囲への配慮も深まります。つまり、外的な幸運を期待するのではなく、自らの心身を整えることそのものが、災難を未然に防ぐ最も合理的な防衛策だからです。これは、家内安全や、身体健全、商売繁盛、学業祈願、厄除けなどの祈願項目に自然とつながります。
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