略布薩(りゃくふさつ):差定(順序)
略布薩:人々は煩悩で本来の性質を曇らせているから布薩が必要だ
要点:略布薩とは、戒律を再確認する儀式だ。本式の布薩よりも短い。仏教では、戒を基本に序列がなされている。私独自の主張では、戒は宇宙に偏在しており、すべての神々、人々に既に備わっているから、寺院での授戒は必要ないと考えている。しかし、戒は人々に備わっているから、それぞれそのままでいいのではないか?というとそうではない。人々には煩悩があるから、本来の性質が曇ってしまっている。だからこそ、確認のための布薩が必要なのである。
略布薩とは?:戒律を再確認する儀式
略布薩とは、戒律を再確認する儀式だ。日々の生活の中で知らず知らずのうちに犯してしまった過ちを告白し、自分自身の心と行いを反省する。本来の布薩では、長時間にわたるものだが、一般の修行道場で行われる布薩は、今回の略布薩が行われる。伝統的にいえば、半月に一度、つまり月に二回行われる。しかし、布薩は、日本では行われなくなってきており、実際、私が修行した道場も、本式の布薩は5年に一度くらいで、略布薩でさえも年に数回も行われなかった。
華厳経をベースとした戒律観
仏教では、戒を基本に序列がなされている。たとえば、仏や、それにつぐ菩薩、僧侶たちは戒を神々に授けることにより神々を支配していると考える。荒ぶる神々や悪霊も、この戒の力により抑えることができる。
仏や菩薩、僧侶は出家扱い、神々は在家扱いであり、神々は仏や菩薩・僧侶よりも階級的に下位になる。実際に、寺院でも前後三拝(敬うためのお拝)を神々にはしない。
しかし、私独自の主張では、華厳経を根拠とし、戒は宇宙に偏在しており、すべての神々、人々に既に備わっているから、寺院での授戒は必要ないと考えている。
だから、私の考えでは、神々は仏にしたがう必要はなく、ノウハウだけ教わったら、各自が戒にかなう生活をし、己の力を発揮すればいいのだ。
つまり、禅では、従属や服従ではなく、潜在力の自覚と世界との調和が重要ということだ。それにより神々は自由に活動しつつも、宇宙の秩序に沿った力を発揮できる。これは、神々だけでなく私達にも当てはまる。
しかし、戒は人々に備わっているから、それぞれそのままでいいのではないか?というとそうではない。人々には煩悩があるから、本来の性質が曇ってしまっている。だからこそ、本来の自己になるために、確認のための布薩が必要なのである。
戒と本地垂迹説
仏教に出てくる神々の多くは、インドの神々を取り入れたものだ。だから、日本の神々では事情が違う。日本においては、神々を仏や菩薩の姿を変えた姿だとする本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説が採用された。本地垂迹説では、神々は仏の教えの化身として理解され、従属という関係ではなく、共存・調和の関係に置かれた。たとえば、神道の天照大神は大日如来が姿を変えたものだ。
このように、明治以前では、仏教と神道の堺はいい意味で曖昧だったのだが、明治期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教を辞めて神道一本化にすること)により仏教と神道は切り離されてしまった。
お詫びと注意点
今回のYOUTUBE動画では、なるべく偈文の内容の意味がわかるように工夫したが、英訳に不備がいくつか見つかったので、機会をみつけて修正する予定だ。
また、今回の略布薩は、流れも日本語訳も、伝統的なものに従って発信している。しかし、変えているところもある。それは、御拝が自由制なところと、戒師に対する特別な御拝をなくしたところだ。これは、海外では、キリスト教など他の宗教をやりながら、禅もやりたいという需要がある点からだ。また、これは略布薩であり、伝統的な布薩の中の簡単なバージョンだ。
一点、動画で重要なミスを見つけた。それは回向を普回向としているところだ。この普回向は、日本では四句回向を指す。その点のみ、お詫びいたします。
核心
- 仏教は戒を土台として成り立っている。
- 私は、戒は宇宙に偏在しており、すべての神々、人々に既に備わっていると考える。
- 略布薩とは、戒律を再確認する儀式である。
私の体験談:オンラインで本当の略布薩をしてみたい
要点:日本において略布薩をする機会は少ない。オンラインで本当の略布薩をしてみたい。
私は日本の正式な禅の道場で修行する機会に恵まれ、他の道場についての話もいろいろな修行僧から聞く機会があった。残念ながら、日本の禅の道場においては、戒律は忘れ去られたものとなってしまった。道場で「布薩」や「略布薩」をやったとしても、それは形式的に行ったに過ぎない。
日本の寺院において「戒律」を重視していると言うと大変嫌がられる。なぜなら、誰も戒律を守っていないからだ。だから、私は「戒律」を重視しています、なんて言うものなら、周りから「あなたはこの点で戒律を破りました!」と針のむしろにされる。そう、たとえ自分が不説過戒(他人の過ちをむやみに指摘しない)を守り、誰もけなさなかったとしても、私は周囲からけなされまくるのである。そして、残念ながら、この環境では、悪口が非常に良く働き、悪口を言ったもの勝ちとなり、戒律を守って生活している修行者にとってかなり不利となる。周りが嘘を信じ込んでしまい、周囲から「おまえは嘘つきだ!」と批難されまくった思い出は、これは本当に辛い、日本の禅の道場での一番の思い出だ。
それで、私はたいへん悩んでしまって、空海や慈雲尊者という真言密教の戒の教えについてはまったことがある。それで、真言密教の『大毘盧遮那成佛経疏』というお経の中に以下の一節があった。
所有祕密之法無三昧耶者。不應爲説。大毘盧遮那成佛経疏 原文
すべての秘密の法(真言密教の教え)を、三昧耶戒を持たない者には、決して説いてはならない。大毘盧遮那成佛経疏 現代語訳
これは、秘密の教えを軽々しく言わないという意味なのだが、私は「戒を重要視している」と寺院内で話してしまったという私の過ちを反省した。それだから、私は日ごろ、自分が禅に取り組んでいることも、戒律に取り組んでいることも、絶対に言わないと自戒しているのである(出典:『大毘盧遮那成佛經疏』巻第九(唐・一行記)「入漫荼羅具縁品第二之餘」|SAT大蔵経 No. 1796)。
だから、「布薩」とは、本来は仲間と行うものなのだが、私は一度も本当の意味での布薩を仲間と行ったことがない。ぜひ、オンラインという機会を使って、行ってみたいものである。
Q&A
- Q: なぜ、日本の禅の道場では戒律が忘れ去られてしまったのですか?
- A: なぜならば、明治時代に行われた「廃仏毀釈」の一環として出された「妻帯勝手たるべし(僧侶の妻帯などを公的に認める)」という太政官布告により、妻帯が公式に認められてしまったからです。この政策によって寺院の九割以上が世襲制となり、本来は出家修行を本分とする戒律の体系が、家業の維持や世襲という枠組みの中で形骸化してしまったためです。
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