後唄文(ごばいもん):原文と読み下し・現代語訳
後唄文:蓮の花のようにこの世に染まらない
後唄文とは?:禅宗の伝統において食事の後に唱えられる偈文
要点:後唄文(ごばいもん)とは禅の道場で食事の最後に唱える偈文である。この偈文は「蓮の花のように世間に染まらないな心を保ち、仏の境地を目指す」という意味だ。この偈文は、中国・唐代の僧である智昇が編纂した集諸経礼懺儀(しゅうしょきょうらいさんぎ)に掲載されている。
今回紹介するのは禅の修行道場で食事の最後に唱える偈文。この偈文は私の修行していた道場では名称がなかったが、昭和期に書かれた本から「後唄文(ごばいもん)」とした(参考:沢木興道 著 (1941) 『座禅の仕方と心得 : 附・行鉢の仕方』 代々木書院)。
後唄文とは、食事の後に唱えられる偈文である。応量器(おうりょうき)をしまい終わったら、浄人(じょうにん)という役が単(たん)、坐禅する場所の縁を拭きにくる。それが終わったらこれを唱えてそれぞれ各寮(仕事で割り振られている寮)に帰る。この偈文は、食事だけでなく、略布薩でも唱えられるが、明朝唐音と宋朝唐音との違いで唱え方が違う。
語句
- 処世界如虚空…処世界とは、この世界に生きる、この世に身を置くこと。如虚空とは、何ものにもとらわれない広大な大空のようだということ。
つまり、この世に身を置いているけれど、心は大空のように何ものにもとらわれず、執着がない状態であること。 - 如蓮華不著水…如蓮華とは、蓮華(ハス)の花のようであること。不著水とは、水に執着しないこと。
つまり、蓮の花が泥沼の中に咲きながらも、水や泥に汚されることなく清らかであるように、この世の欲や汚れに染まることがないこと。 - 心清浄超於彼…心清浄とは、心が一点の曇りもなく清らかであること。超於彼とは、彼(迷いの世界)を超越すること。
つまり、そのように清らかな心でいれば、迷いや執着の多い俗世間を遥かに超越し、仏の境地に立っていること。 - 稽首礼無上尊…稽首礼とは、頭を地につけて丁寧にお礼拝すること。無上尊とは、この上なく尊い存在のこと。
つまり、この上なく尊い仏(または自身の内なる仏性)に対して、深く頭を垂れて礼拝すること。
まとめると、この偈文は、「蓮の花のように世間に染まらないな心を保ち、仏の境地を目指す」という意味だ。
この偈文は、中国・唐代の僧である智昇(ちしょう)が編纂した集諸経礼懺儀(しゅうしょきょうらいさんぎ)に掲載されている。これは、懺悔(さんげ)や礼拝(らいはい)に関するマニュアル本だ(参考:『集諸經禮懺儀』巻上(智昇撰)|SAT大蔵経 No. 1982)。
核心
- 後唄文では、蓮の花のように世間に染まらないな心を保ち、仏の境地を目指すことが重要であると説いている。
- 後唄文は、智昇が編纂した集諸経礼懺儀に掲載されている。
- 後唄文とは、禅宗の伝統において食事の最後に唱える偈文である。
私の体験談:この世界のあり方は虚空のようだ
要点:私は「私が世界を動かす主体であること」に執着していた。それに気がつけば、目の前の現実への取り組み方が変わる。
私はつい最近まで罪悪感に悩まされていた。それは、何でも自分の力でやろうとしていたことから生じていたように思う。しかし、ある瞬間、世界のあり方は実体がないことに気づいた。すべては相互に関係し合い、原因と結果は固定されているわけではない。私は、自分の行動の主体である一方で、世界全体の主体ではない。つまり、世界は空である、とその瞬間感じたのだ。その理解と共に、罪悪感はなくなっていった。
このように、自分の心を観察していると、「私が世界を動かす主体である」という思い込みや執着を超える瞬間がある。こうした気付きは、目の前の現実は変わらなくとも、日常の一歩一歩を軽くしてくれる。
Q&A
- Q: なぜ世間に染まらないことが大切なのですか?
- A: なぜなら、私たちは気づかないうちに世間から植え付けられた「思い込み(執着)」を自分自身の価値観だと錯覚し、それに縛られて生きているからです。この思い込みを抱えたままでは、単なる世俗の延長に過ぎません。山に籠もらず世間の中で生きる(市井に住す)ということは、本来「世間の思い込みを完全に手放し、仏の視点を獲得した上で行う」という非常に高度な実践を指します。今の日本仏教が抱える最大の問題点は、この「手放すプロセス」を省略し、一般の人々と変わらないことにあるのです。
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