三口食の偈とは?
今回紹介する偈文は、食事の前に唱えられる。
今まで発信したようにこの偈文の前にもたくさんある。
この偈文を読誦する時は、もうすでに配膳が済んだ状態だ。
粥または飯の入った頭鉢(ずはつ)を頭上に掲げながら唱える。
それが終わって、やっと食事を始めることができる。
英文概要overview
三口食の偈 introduced this time is recited before a meal.
As I have shared before, there are many chants even before this one.
When this chant is recited, the food has already been served.
The monk lifts the main bowl with rice or porridge above the head and chants. After this chant is finished, the meal can finally begin.
This chant corresponds to the Three Sets of Pure Precepts, which are taught in the Mahāyāna Bodhisattva Precepts.
原文と読み方 original text & how to reading
一口為断一切悪 二口為修一切善
三口食の偈 原文 original
三口為度諸衆生 皆共成仏道
いっくいだんいっさいあく にくいしゅいっさいぜん
三口食の偈 読み方
さんくいどしょしゅじょう かいぐじょうぶつどう
Ikkuidan issai aku Nikui shu issai zen
三口食の偈 reading
Sankui dosho shu jō Kaigu jōbutsudō
三口食の偈 現代語訳
現三口食の偈 代語訳
一口をもって、いっさいの悪を断ち、二口をもって、いっさいの善を修め、
三口をもって、あらゆる衆生を度し、みな共に仏の道を成就する。
Modern Translation With the first bite, I cut off all evil. With the second bite, I practice all good.With the third bite, I help all living beings. May we all complete the path of the Buddha together.
三口食の偈 Modern English Translation
三口食の偈 解説Detailed Explanation
この偈文は、三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、大乗菩薩戒に相当する。
・一口為断一切悪― 摂律儀戒
自分のために余計なことをしない
(一般的には悪いことをしない)
・ 二口為修一切善― 摂善法戒
かといってなにもしないことに留まらないでなすべきことをなす
(一般的には善いことをする)
・ 三口為度諸衆生― 摂衆生戒
他者のために余計なことをしない
(一般的には他者のためになることをする)
・ 皆共成仏道
自他ともに仏道を成就すると願う
(一般的には自他ともに仏道を成就する)
私の体験談 My Experience & Opinion
戒と道徳とは別物だということをはっきりと言わなければならない。
今回の偈文も、どちらかというと、国家統制である道徳の意味を含んでいる。
一口為断一切悪(いっくいだんいっさいあく)、二口為修一切善(にくいしゅいっさいぜん)、三口為度諸衆生(さんくいどしょしゅじょう)については、別の機会に述べる。
今回は皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)について述べる。
皆共成仏道は、一般的にいえば、自分だけが悟るのではなく、みんなとも分かち合うことで、自他ともに仏道を成就するということ、つまり、誰一人切り捨てない態度で歩き続けるという意味で語られる。
これは大変な美談だし、私もそうならいいなぁと思うのだが、残念なことに、私は現実的ではないと思う。
なぜなら、仏道というのは、史実として事実として、他人を切り捨てて入る面が強いからだ(本格的に出家する場合)。
釈迦や、黄檗(中国の禅僧)なども、親や妻、子どもを露頭に迷わせる覚悟で修行しているし、日本でも(古代の)修験道では「自分が崖から落ちたら見放してくれ・仲間が落ちたら見放す」という前提・覚悟で上山したそうだ。
なかにはそういう覚悟のない者へ「誰一人切り捨てない態度で歩き続ける」という気持ちを持ってしまうと、単なる奉仕者になってしまう。
以前あるコメントで「もし自分の家族が路頭に迷ったら助けずにはいられない。それが本当の善なのではないですか?」と言われたのだが、私はそれは社会での道徳での善であって、禅の核心であるとは思わない。