帰依文(きえ もん):原文と読み下し・現代語訳
帰依文:自分はまだまだ至らないという自覚
帰依文(歸依文)とは?:仏教徒が自らの信仰の拠り所を明らかにするための文言だ
要点:帰依文とは、仏教徒が自らの信仰の拠り所を明らかにする文言だ。
帰依文とは、儀式を通して、仏教徒が自らの信仰の拠り所を明らかにするための文言である。お経の中にある「金剛上師(こんごうじょうし)」は密教で最高の師という意味だ。今回は禅宗寺院のため、金剛上師が三宝(さんぼう)に変更されている。
帰依(きえ)とはすがるということ。つまり「私は仏や法や僧にすがります」という意味だ。
発心とは仏門に入ることで、声聞とは仏の声に導かれて悟りを得るもの、縁覚は十二因縁を独力で悟るもの、菩薩はみずからだけでなく他者のためにも悟りを求める者で、ここでは自分だけではなく、衆生(しゅじょう)みんなで悟りを開くことを目指す(菩提心)、という意味だ。
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは悟りのこと。
如来とは悟った人のことで、応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人とは、如来(悟った人)の特徴のことだ。これは如来十号として、主に開眼(仏像に僧侶が魂入れを行い、筆で目の色を黒くすること)などで唱えられる。
如来十号
- 如来…悟った人
- 応供…供養されるにふさわしい人
- 正遍知…一切の智慧を遍く知っている
- 明行足…智慧も実践もともにそなえている
- 善逝…悟りに向かって正しく進んだ
- 世間解…世の仕組みや因果の道理を巧みに理解する
- 無上士…人々の中で最上に優れている
- 調御丈夫…巧みに人を導く
- 天人師…神々でさえも師と仰ぐ
- 仏世尊…あらゆる人から尊敬される
ちなみに、下記にあげている教本では、寶聖僧とあったが、道場の録音では賢聖僧とあったので、賢聖僧と訂正している。
核心
- 帰依文とは、本来「自分自身」を拠り所とする禅には不要な儀式である。
- しかし、その儀式に身を投じ「至らぬ自分」を直視する時、儀式は修行へと変貌する。
- 儀式を形式としてこなすか、禅として取り組むかは自分自身だ。
私の体験談:儀式を禅にするかどうかは君次第だ
要点:禅では自分を拠り所にする。したがって、禅において儀式は不要だが、その儀式を禅にするかどうかは自分次第だ。
現代日本では、密教、禅宗、その他の宗派としっかりと分けられているが、今回の帰依文をみると、禅宗が密教寺院での法要を取り入れたことがよく分かる。このように、お互いに影響し合っているのというのがおもしろい。日本では、江戸時代の檀家制度の影響で、宗派がしっかりと分かれてしまっていて「他の宗派を学習する」というと裏切り者扱いされるのだが、ルーツを探るとこのように、お互いに密接に関係しあっているのである。
今回の帰依文では、自らの信仰の拠り所を仏や法や僧(もしくは金剛上師)とすることを誓うものだが、禅では自分自身である。だから、禅ではこういった儀式は本来必要ないものだ。正直に言うと、禅寺が社会の中でやっていく上で、こうした儀式が統制や権威の継承のために取り入れられたという面が強い。それで、よく、「自分は坐禅をしにきたのであって、こうした儀式はやりたくない」という人がいるのだが私はもったいないなぁと思う。私が声明(しょうみょう)が好きだということもあるのだが、いつこのお経をよんで、いつこういう動作をして…というのを集中して達成していったり、仲間がまちがってしまい、それを咄嗟に補うのはなかなかやり甲斐がある。これは道中工夫(日常のあらゆる所作を、悟りに向かう修行のプロセスに変える工夫)として禅の修行にできる。
それで、今回の帰依文を通して、私は如来のような人間になれているのだろうか?と自問自答するのである。そうすると、まだまだまったく至らないなぁという気持ちになるのだ。
なにをいいたいのかと言うと、禅では本来儀式は必要ないということだ。しかし、その儀式を形骸化したルーチンにするか、それとも禅の修行にするかどうかは君次第だ、ということだ。
Q&A
- Q: なぜ禅では儀式が不要なのに、儀式をなくさないのですか?
- A: なぜならば、儀式は組織の維持や統制にその本質があるからです。だから、禅寺では儀式を大切にしています。また、私は声明や経典の学習が好きであり、こうした声明やお経の意味を公開しています。しかしながら、私は個人で禅をやっています。したがって、こうした儀式は私の日常に必要がありませんし、やっていません。ただ、私は密教の加持祈祷は積極的に日常で行っています。これは、私が必要だと判断しているからです。つまりは、自分で勉強し、自分の頭で考えて自分の責任で実行することが大切なのです。
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