従容録第十一則雲門両病:悟りは完成ではない

いろいろな仏教書の解説がある。

それらを読み、長く学んでいると、理解が積み重なっていく感覚がある。

しかし、その理解は本当に体験に則しているのだろうか。

今回は『従容録』雲門両病を手がかりに、「わかった気になること」そのものについて、私自身の体験から考えてみたい。

目次

Summary:Enlightenment Is Not Complete: Noticing the “I Think I Understand” Self

There are many books that explain Buddhism.
When we read them and study for a long time, it can feel like we understand more and more.
But is this understanding really based on experience?

Master Yunmen talked about two “illnesses” that can happen after enlightenment:

  1. The illness of light not passing through – this happens when someone thinks they are enlightened but cannot use that enlightenment. Even if they understand emptiness, their mind still makes distinctions, and they cannot fully use enlightenment.
  2. The illness of clinging to the Dharma body – this happens when someone thinks emptiness is a fixed thing, or even if they understand emptiness, they cannot completely let go of the idea of the Dharma body.

I organized these two illnesses in a scholarly way, but Yunmen called even this kind of understanding itself a “sickness.”

In other words, the “medicine” for these untreatable illnesses is when the self that wants to fix or control things disappears. It means stopping the checking: “Do I understand the light? Have I reached the Dharma body? Is something still left?”

This kōan is for advanced students of Zen.

わかったつもりの自分に気づく瞬間

雲門大師:大悟徹底して光が本当に突き抜けていなければ、二つの病がある。

一つは、どこもかしこも明らかになっていないのに、目の前に何かがあるように感じること。

もう一つは、あらゆる法(現象)は空だと理解しても、かすかに何かがあるようだという感じが残っていること。
これもまた、光が突き抜けていない証拠である。

さらに、法身(真実のあり方)についても同じく二つの病がある。
法身に到達したと思っても、法にとらわれる心が消えず、自分の見解をなお手放せないために、法身という領域に落ち込んでしまう。

たとえそこを突き抜けたとしても、そのまま放置しておけばよろしくない。

細かく点検しては『では一体、どんな息づかい(何もの)が残っているのか』などと言うのも、これまた病である。

従容録第十一則雲門両病

雲門文偃(うんもんぶんえん)は趙州と並ぶ禅の書物における人気な禅師だ。

碧巌録では百則中十四則、無門関には三則、従容録には八則が雲門が主人公だ。

雲門はもとの苗字は張といい、幼い頃に出家した。

雲門は趙州と同じく非常に言葉の巧みな禅師であり、特に雲門の一字関といって、単に一字で答えていく。

たとえば、「正法の眼とは何ですか?」に対しては「普」というふうに。

今回の問答はこうした簡単な問答ではなく、論理的な問答だ。

本則を簡単にいうと、いかなる食養をもってするも及ばぬ不治の難病にはどのような治療の手段があるか?というものだ。

この、本則の問いは、最初から治療不能に設定されているから、そもそも手段なんか最初から無い。

それでは、病とはそもそも何なのだろうか。

ここでいう光というのは、一般的な解釈でいえば悟りの光となる。

しかし、『修養大講座 第9巻』著者の加藤は、ポジティブな意味ではなく、本来人にそなわっている智慧の光を障礙する煩悩無明の光のことだという。

また、法身(ほっしん)というのは真理そのものであり、悟りの理想的境界のことだ。

そこで、参禅修行により、現実の煩悩生活を精算すれば、理想の境地に入ることができる、と、そう捉えた瞬間に、すでに病いの射程に入ってしまうのである。

ここで、雲門のいう両病とは、全く悟りをひらいていない一般人のかかる病ではなく、既に五蘊盛苦を悟ったうえでの病気で、客観的にいえば光の未透脱と透脱、主観的にいえば法身の未到と已到とにある。

光の未透脱とは、悟って悟りに腰を掛けていてお先真っ暗な状態(光透脱せず)と、一切法空(いっさいほっくう、すべての物や事象はあるがままにすべて空なる状態にあること、縁でつながっているに過ぎなこと)を理解しても意識では分別して有る無しを考えてしまい、悟りを活用できていない状態(光透脱せず)のことである。

法身の未到とは、法身に至ったとしても、外にある客観的な対象だと思っているものは、それ自体として固定した実体を持たず、因縁によって仮にそう見えているだけなのに、それ自体として固定した実体だと考えてしまうことだ。

これは、煩悩のようにわかりやすいものではなく微細な病で、菩薩でもこの病を脱しきれないのだという。

二つ目の法身病は、空を理解して、区別そのものが、もはや立ち上がっていない状態となったとしても、なお、法身の観念を一掃仕切らない状態のことだ。

こうして私は、学術的に両病について整理したのだが、雲門は、まさにこの理解のしかた自体を「病」と呼んでいるのだ。

あえていえば、不治の病を治す薬とは、治そうとしている主体が立たなくなった状態であり、光をどう理解するか、法身に至ったかどうか、まだ何か残っていないかという確認を辞めることなのである。

この公案は、上級者向けの公案といえる。

私の体験談

空(くう)は、一般的な仏教書にはだいたい書いてある、仏教の基本概念だ。

私もこれまで、概念としては理解しているつもりでいた。

ただ最近になって、ああ、こういうことを指していたのかもしれない、と思う瞬間があった。

それは言葉にすると、かえってずれてしまいそうな体験だった。

振り返ってみると、私は概要だけを知って、わかった気になっていただけだったのだと思う。

きっと、これからも同じようなことは何度も起きるのだろう。

まとめ

雲門は、悟後の病として「光が逃脱していない病」と「法身にとらわれる病」という二つを挙げた。

あえて言えばこれは、「わかった気になってしまう」病であり、その薬とは、理解や確認といった主体的判断を手放すことにある。

たとえば空という概念は、仏教では基本中の基本として繰り返し語られてきた。

私も長く、それを理解しているつもりでいたが、実際には概要を知って安心していただけだったのかもしれない。

最近になって、その理解がふと揺らぐような体験があり、言葉にしきれないズレを感じた。

雲門の公案は、まさにその「わかったつもり」の地点そのものを病として照らし出す。

理解はこれからも進むだろうが、そのたびに、立ち止まり直すことになるのだと思う。

よくある質問

問一. この公案は誰に向けられていのですか?
主には悟ったと感じている人に向けられています。
修行や理解が進み、空や法身を語れる段階に入った者ほど対象になります。
ただし未悟者にとっても、悟れば安心できるという幻想を壊す入口にはなります。

問二. 学術的整理はよくないということなのですか?
学術的理解は、概念を整える段階では、迷信や誤解を避けるための薬になります。
しかし整理した理解に腰を掛けると、それ自体が病へと変わってしまいます。
正確であるほど、「自分は分かっている」という微細な主体が温存されるからです。

問三. 主体が完成するとはどいうことですか?
禅における主体の完成とは、主体が強固な中心として確立されることではありません。
むしろ、判断・確認・所有の中心としての主体が解体されることで完成します。
結果として残るのは、選別以前に自然に働く「はたらき」だけです。

問四. 自力と他力の区別はどこまでできるのでしょうか?
修行方法を語る上では、自力・他力の区別は有効です。
しかし、修行が進んでくると、どちらも主体が立つか否かで病にも薬にもなリます。
最終的には、自力も他力も「はたらき」としてしか残りません。

問五. 結局この公案は、何をせよと何もするなのどちらでしょうか?
どちらか、ではなく、問題にしているのは、「している自分」「やめている自分」を確立する心です。
行為が起きても止まっても、そこに居座らなければ病にはなりません。

問六. さっぱりわかりません(T_T)
今回の公案は悟った後の人向けの公案なので難しかったですね。
このブログでは、レベル別にタグ付けしています。
まずは、初級向けの公案をおすすめします。

より簡単に絵本にしました
🔗https://note.com/s2rz/n/n3a531613483d?sub_rt=share_sb

参考文献

坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2026年1月19日) 

加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第10巻』平凡社。

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