一般的にいえば、宗教を行う、というと、なんだか教祖や教団のいうことに盲目にしたがうことのように思われている。
しかし、禅では、釈迦はあくまでも真理を悟った人の一人であって、この人だけが絶対な超越者というわけではなかった。
宗教とは、実践することであり、したがうことではない。
今回は、禅の書物『従容録第四則世尊指地』を読んで、宗教とはどのようなものかを考える。
自分の人生の主人公となる
世尊は弟子たちとともに歩きながら、手で地面を指して言った。
「ここに梵刹を建てるとよいだろう」。そのとき、帝釈天(天の王)が一本の草を持ってきて、地面に挿しながら言った。
「もう、梵刹を建てることは完了した」。世尊はにっこりと微笑された。
従容録第四則世尊指地
今回の登場人物は釈迦と帝釈天。
世尊というのは釈迦(しゃか)の尊称だ。
釈迦の本名はゴータマ・シッダールタ(Siddhartha Gautama)で、釈迦族(シャーキャ族)の王子として生まれた。
「釈迦牟尼(しゃかむに)」は、釈迦族の聖者(ムニ=聖者、賢者)を意味する。
彼は禅では仏教における絶対的教祖というよりは、真理を悟った数いる人々の中のひとりに過ぎない。
帝釈天は、シャクラー・デーヴァーナーム・インドラ(Śakra-devānam-Indra)といい、須弥山(しゅみせん、当時の宇宙観で、宇宙の中心にこの山があるという)の頂上の忉利天(とうりてん)の主で、善見城に住んでいて東西南北の四天王と天上界三十三天を征服する、仏法帰依の人々を護り、仏法に反対する魔軍を征伐するという恐ろしい神様だ。
この帝釈天は、もともとは古代インドの神話に出てくるインドラ(帝)神が仏教に取り入れたものだ。
さて、本題に入ろう。
ある日、釈迦が弟子をたくさん引き連れてでかけた。
その中に帝釈天もいた。
このことから、人間の弟子だけでなく、神々も随行していたようだ。
仏教は他の宗教の信仰を単に排除するのではなく、自らの教えの文脈で再解釈し取り入れる形で広まっていった。
そのため、さまざまな文化や宗教の神々が仏教の守護神や菩薩として組み込まれている。
万松は、何も釈尊一人だけが天上天下唯我独尊ではなくて、神々・人々ひとりひとりが主とならなければならないのに、随行とは情けない奴らだなぁ、とつっこんでいる。
このつっこみは、我々読者にも向けられている。
禅では、釈迦を崇め後についていくのではなく、各自が自分の人生の主人公とならなければならないからだ。
そこで、釈迦が「ここに梵刹を建てるとよいだろう」と言った。
梵刹とは寺のことだ。
普通の人は、早速宮大工に頼んで祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)のような大伽藍(だいがらん、立派な寺院建築)を造設しなければならないと思うところだ。
ところが、帝釈天は一本の草を持ってきて、地面に挿しながら言った。
「もう、梵刹を建てることは完了した」
これは、本当の仏教は、寺院の大きさには関わらず、人々各自が、生活のその時、その時で主となって仏道に取り組んでいくことにあることを示している。
そして、このように取り組んだ時に、その場所が極楽浄土となるのである。
死後に極楽浄土に行くのではなく、極楽浄土を今ここに現成させるのだ。
今回は一本の草だったが、何も草でなくても石ころでもいい。
石ころはもともと岩であり、岩はかつて山の一部であった。
山は広大な地球の一部であり、地球は無数の天体が集まる銀河の一部である。こうして小さな石ころひとつにさえ、宇宙の壮大なつながりを感じる。
草は大地から生まれ、かつて山の一部であった大地に根ざしている。
大地は山に属し、山は広大な地球の一部であり、地球は無数の天体が集まる銀河の一部である。
こうして一本の草にさえ、宇宙の壮大なつながりを感じる。
このようにして、人もまた本来、宇宙と一体である。
しかし、社会的常識や雑念によって宇宙の一部である本来の自分が見えなくなる。
その覆いを取り除き、自分の中心に戻るためには修行が必要である。
草は大地から生まれ、かつて山の一部であった大地に根ざし、大地は山に属し、山は広大な地球の一部であり、地球は無数の天体が集まる銀河の一部であると、頭で理解することは、哲学である。
宗教とは、頭で理解したうえで、自分の生活におとしこむことなのであるから、闇雲に従い続けることではない。
帝釈天の行動が、釈迦と相合したので、仏がにっこり笑ったという。
この笑みは、言葉にも文字にもできないという象徴だ。
哲学が言葉を扱う学問ならば、宗教では言葉以外も加わる学問だ。
また、哲学では理性を使って世界を理解するものならば、宗教は理性で理解するだけでなく生活に落とし込むものだ。
私の体験談
私は、一般の方々と同じように、家族の一員として家庭生活をしていたときもあれば、会社に勤めていたこともあったし、修行道場や寺院で生活していたこともある。
確かに、修行道場では、修行するためのシステムが整っていて、一般の生活よりは修行がしやすいが、そこの構成員の動機によっては、一般人の家庭生活や会社生活と変わらない生活となってしまう。
このことから私は、本人の心がけがあれば、一般の家庭生活や会社生活でも、心がけ次第では寺院や道場での環境を再現できると考えている。
それでは、寺院や仏像の造営は、仏教の信仰とは異なるものなのだろうか。
私は、東京国立博物館で仏像の数々を拝見したことがある。
常人では到達できないほどの高い技術は、素人の私も驚嘆した。
私はこの体験から、寺院や仏像を造影する営みもまた、仏道だと考える。
宮大工や仏師らの尋常ではない精緻な設計や制作には、ひとつの目的に心を尽くす集中力が必要だ。
仏道は今この瞬間に全身全霊を向けることが修行の核であるから、宮大工や仏師らは製作の過程で仏道を歩んでいるといえるし、造営物による表現は、言葉によって理解し表現する私とは別の表現方法だともいえる。
今回の古則がいいたいことは、名誉欲や富、権力のために、教えを理解しようとせず、建物や仏像の外見だけの立派さを求めることが仏教ではない。
仏教にかなった生活をせよ、といっているのである。
まとめ
草や石ころが宇宙の構成物の一つであるように、人もまた本来、宇宙と一体である。
一般的に考える宗教では、教祖や教団のいうことに盲目にしたがうことのように思われている。
しかし、禅では、従うべきは人や教団ではなく宇宙の調和・秩序であるから、人にしたがうことではない。
哲学が言葉を扱う学問ならば、宗教では言葉以外も加わる学問だ。
また、哲学では理性を使って世界を理解するものならば、宗教は理性で理解するだけでなく生活に落とし込むものだ。
だから、禅の修行は、本来の宇宙の構成物の一つである、という私を取り戻すために行われるから、社会的価値観から距離をおいて「自らの足で立つ」という主体的な態度をとることが必要となる。
よくある質問
問一. 仏教の神さまにはどんな神様がいますか?
A.すごくたくさんいるので、この場では足りません。
この場におさめるなら、たとえば大般若経を守護しているとされる十六善神の深沙大将(じんじゃたいしょう)は『西遊記』の沙悟浄のモデルとされています。
また、迦楼羅(かるら)は天狗の、那伽(ナーガ)は龍の源流とされています。
このあたりがみなさんが聞いたことがある、仏教の神様です。
問二. どうして神々がしたがうのですか?
A. 神様がしたがうなんて不思議ですよね。
これは戒がキーワードになります。
仏や、それにつぐ菩薩、僧侶たちは戒を神々に授けることにより神々を支配していると考えます。
荒ぶる神々も、この戒の力により抑えることができると考えています。
仏や菩薩、僧侶は出家扱い、神々は在家扱いであり、神々は仏や菩薩・僧侶よりも階級的に下位になります。
寺院でも前後三拝(敬うためのお拝)を神々にはしません。
しかし、私独自の主張では、戒は宇宙に偏在しており、すべての神々、人々に既に備わっていると考えています。
ですから、私の考えでは、神々は仏にしたがう必要はなく、ノウハウだけ教わったら、各自が戒にかなう生活をし、己の力を発揮すればいいのです。
つまり、禅では、従属や服従ではなく、潜在力の自覚と調和が重要ということです。
それにより神々は自由に活動しつつも、宇宙の秩序に沿った力を発揮できます。
これは、神々だけでなく私達にも当てはまります。
まだ私の思想に記事執筆が追いついてないので、発表までちょっと待って下さい。
問三. 日本の神様もしたがっているのですか?
A. いいえ。
日本においては、神々を仏や菩薩の姿を変えた姿だとする本地垂迹(ほんぢすいじゃく)説が採用されました。
日本では、調和という思想が強く、神々は仏の教えの化身として理解され、従属という関係ではなく、共存・調和の関係に置かれたのです。
たとえば、神道の天照大神は大日如来が姿を変えたものだとされています。
このように、明治以前では、仏教と神道の堺はいい意味で曖昧だったのですが、明治期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、仏教を辞めて神道一本化にすること)により仏教と神道は切り離されてしまいました。
問四. あなたは仏壇を家においていますか?
A. いいえ、ありません。
禅では、仏像を置いくことに関しては重視されません。
たしかに仏像は象徴としての意味があり、信仰の補助になることはあります。
しかし、禅では仏像を拝むことではなく、座禅や日常の行為こそが寺院や仏道であると考えています。
ですから、私の部屋には仏像はないので、一見仏教徒だとは思われないような簡素な部屋です。
ただし、私は自身を導師とした祈祷を行うので、祭壇があります。
これも、一般の人が見てもわからないほど簡素です。
問五. 釈迦が笑うのは拈華微笑のことですか?
A.はい。
拈華微笑は『無門関』という、今回扱っている従容録とはまた別の禅の書にでてきますが、今回の話に相当すると思います。
これは、本当のことは言葉や文字にできないことを象徴していますね。
より簡単に絵本にしました
🔗https://note.com/s2rz/n/n164598b17bbb?sub_rt=share_sb
参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録について」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2025年12月1日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
