道場での修行は、道場という特別な場所でしか成立しないのだろうか。
掃除や雑務の中で感じた集中は、日常でも同じように成り立つのではないか。
では、道場に行くことと、いまここで生きることは、何が違うのか。
今回は、従容録第十則台山婆子を読んで、この素朴な疑問について考えていく。
Summary:Is Zen only possible in a temple?
Practice is not about a special place, but in the steps you take now.
When I practiced Zen in a temple, I thought that real practice could only happen there.
One day, while I was quietly cleaning, I felt that this focus could also happen outside the temple.
So I wondered: can Zen practice happen anywhere, not just in special places?
In a story from Zen texts, a monk asked an old woman on the way to Mount Tai, “Which way should I go?”
She said, “Go straight.”
The monk walked a little, and she said, “You are a good monk, but you still went on like before.”
Another monk told Master Zhaozhou about this.
Zhaozhou also asked the old woman the same question.
The next day, he said in the hall, “I have seen through the old woman’s meaning for you.”
The old woman did not mean that reaching a holy place is the most important thing.
She meant that each step you take now is real practice.
Some monks walked thinking about reaching Mount Tai, but Zhaozhou walked with attention to the step itself.
This is why he could understand the old woman’s meaning.
Zen practice does not need a special place.
It can happen in daily life if we focus on how we walk, not where we go.
修行とは特別な場所でなく、今の歩みにある
台山の道の途中に、一人の老婆がいた。
僧:台山への道を行くとき、どこへ向かって行けばよいのか
老婆:まっすぐ行け
僧はそのまま少し歩いて行った。
老婆:立派な修行僧だが、やはりそのまま行ってしまったな。このことを、ある僧が趙州に話した。
趙州:よし、私が代わりに見極めてこよう。趙州もまた、前と同じように老婆に問いかけた。
翌日、趙州は法堂に上がって言った。
趙州:私はお前たちのために、あの老婆を見抜いてきたぞ。
本則の主人公は趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)。
趙州は禅話においては人気者で、碧巌録では百則中十二則、無門関では四十八則中六則、従容録では百則中六則は趙州の話である。
趙州は、唐の代宗帝の時代に生まれ(弘法大師空海より五歳年下)、百二十年生きた長命の人だ。
18歳ごろ、はじめて南泉普願に相見し、そのもとで平常心是道(びょうじょうしんぜどう)の大悟を得、五十七歳の頃南泉が遷化(せんげ、死亡)、六十歳で再び諸方の禅の道場を訪ねてまわった。
八十歳になって、趙州城東観音院(今の河北省正定府)の住職となり、百二十歳まで多くの参禅者を指導した。
台山は山西太原府にある、文殊菩薩の霊場として有名な五台山のことだ。
この台山の道端にお茶屋があって、そこに老婆がいた。
唐代には、参禅し修行した女性があちこちにいたようだ。
台山の霊場参拝にでかける僧侶は、常に多くあったが、この婆さんの接待を受けた。
そして、上山の路を聞くと、つねに「まっすぐ行きなさい」と答えた。
この「まっすぐ行きなさい」という台詞はただの道案内ではない。
ところで、まっすぐに行けといっても、それが脇道だったとしたら、ただまっすぐに行っただけでは台山にはたどり着かないからだ。
これは単純な道案内ではなく、禅問答であることに、僧侶は気づかなければならない。
それなのに、僧侶はそのまままっすぐ歩いていってしまう。
すると婆さんは「立派なお坊さんが、やっぱりあのようか」というのだという。
趙州はそんな話を聞いて「よし、わしがお前たちのためにそのばあさんの力量を見届けてやろう」といって、台山へ出向くことになった。
さて、趙州がでかけていって老婆に他の僧侶と同様「台山へはどう行くのか」と聞いた。
婆さんは趙州に対しても同じ返事をした。
それなのに趙州は上堂して、「私はお前たちのために老婆を見抜いてきた」と告げた。
これはどういうことなのだろうか。
老婆の意図は、五台山のような聖地に着くことが大事なのではなく、いま踏み出している一歩を、そのまま大切にして進むことこそが修行であるという点にある。
本来霊場はどこにあって、本来文殊菩薩はどこにいるのか。
どうして自分の中の霊場や文殊菩薩に向き合うことを置き去りにして、わざわざ外の聖地や場所に求めてしまうのだろうか。
そんなことをして一生を費やすのは徒労だ。
同じ「まっすぐ行け」と言われても、他の僧は五台山へ着くために歩き、趙州はいまの一歩そのものとして歩いた。
この違いによって、老婆の言葉の働きがその場で成り立ち、趙州は老婆の意図を確かに見抜いたと言えたのである。
私の体験談
道場で修行していた頃、私は道場という場所に身を置くからこそ修行になるのだと考えていた。
伽藍や作法、鐘の音、師家の存在、それらがそろっている場だけが特別であり、そこに身を委ねることで修行が成立するのだと思い込んでいた。
ある日、掃除や雑務を黙々とこなしている最中に、ふとこの集中力は、道場でなくても生まれるのではないかと、感じた。
それは、場所を離れても失われないものだった。
これは、修行は道場という空間に依存しているのではなく、いま目の前のことにどう向き合うかによって立ち上がるのだ、という実感が生まれた瞬間だった。
「どこかへ行けば、本物の修行がある」という思い込みがほどけ、いま踏み出している一歩そのものが修行なのだと腑に落ちた。
その体験があってから、五台山の老婆の公案を読むと、単なる言葉ではなく、自分自身の経験に重なって響く。
聖地や道場を目指すのではなく、いま歩んでいる一歩を大切にしその場を道場にすることの意味が、体験されたのだ。
まとめ
老婆の「まっすぐ行きなさい」は、修行は特別な場所に限定されるものではなく、いま向き合っている一歩の中に成立することを示していた。
私の掃除の中で感じた集中と体験は、この公案がはるか昔の中国の話しなのではなく、日常で再現可能なことを示した。
こうして、「どこへ行くか」よりも「どう歩むか」に重心を置いたとき、日常そのものが修行の場となる。
老婆の公案は、答えは遠くではなく、いま踏み出している一歩の中にある、と示しているのである。
よくある質問
問一. 五台山という具体地が選ばれている意味はありますか?
中国仏教で五台山は代表的な聖地で特別な場所の象徴です。
だからこそ、そこに着くことではなく、場所でもなく、一歩の在り方が大切だ、という転換が強調されます。
具体地だからこそ、場所依存を越えるメッセージが際立ちます。
問二. 修行は本当にどこでも可能なのでしょうか?
修行を成立させる要因は「場所」よりも「向き合い方」です。
呼吸、歩行、作業など、いま行っている事柄そのものが土台になります。
その意味で、道場に限らず、どこでも可能と言えます。
問三. 日常生活で「まっすぐ行になさい」をどう実践すればいいですか?
いまやっている動作に注意を戻し、結果や評価に引きずられすぎないことです。
これでいいのかと迷い続けるより、今していることに向き合う。
その繰り返しがまっすぐ行くことの実践になります。
私も、記事書いててこれやって意味あるのかなぁと思うことあるので、耳が痛いですね!
問四. 聖地巡礼や参拝は無意味だと言っているのでしょうか?
無意味と否定しているわけではありません。
ただし「場所に頼らなければ修行できない」という発想を手放すことを促しています。
聖地も一歩も、ともに活かし方次第だという視点です。
問五.趙州は実際には何をもって「勘破した」と言えたのでしょうか?
老婆の言葉を理屈として理解したのではなく、一歩の在り方で応じました。
目的地を追う心に引きずられず、言葉の働きをその場で成立させたのです。
その体現によって「見抜いた」と言えるのです。
より簡単に絵本にしました
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参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2026年1月12日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
