日常の議論や常識に縛られると、本質を見失いがちだ。
子どもの進路や仕事の判断など、誰もが正しい答えを求めて迷う。
そして、世間一般でいわれる常識にしがみついてしまう。
そんなとき、言葉だけでなく行動で示す一歩が、思考の枠を超える鍵になる。
この記事では、従容録第九則南泉斬猫を参考にして、常識を超える例を紹介する。
常識を超える一歩で、迷いを直感に変える
ある日、南泉は東西両堂の僧たちが一匹の子猫をめぐって争っているのを見た。
南泉はそれを見て、子猫を取り上げて言った。
南泉:言ってみよ。もし言い得るなら、この猫は斬らずに済ませよう。しかし、誰も答えることができなかった。
そこで南泉は、その子猫を斬て真っ二つにしてしまった。その後、南泉はこの出来事を趙州に話して、どう思うかと尋ねた。
趙州は、草鞋を脱ぎ、それを頭の上に載せたまま立ち去った。
南泉:もしお前がその場にいたなら、まさにこの猫を救えただろう。
従容録第九則南泉斬猫
南泉は唐時代に今でいう安徹省にある南泉山に住んでいた。
俗称が王氏というので、王老師とも自称し、他からもそう呼ばれていた。
今回の本則にある、東西両堂とは、坐禅をする禅堂だとする説と、お経を納めてある経堂だとする説の二つの説がある。
なぜ、遺教経に、寺院ではいかなる人・動物も所有しないとあるのに、ここでは猫がいるのだろうか。
この猫は、経典をかじるネズミを狩る用の猫だと推察できる。
そういう理由で、釈迦の入滅が描かれた涅槃図でも、猫の姿がよく確認される。
それなので、東西両堂というのは、経堂か、もしくは経堂にいた猫が坐禅堂に入ってきてしまったのではないかと推察できる。
そこで、この猫について、僧侶たちが、仏性論だが因果論だが、仏道について言い争っていた。
そこで南泉が「さぁ言ってみろ、猫がどうしたのか?もしいえるなら猫を斬らずにおくが、できないなら斬ってしまうぞ」と言った。
そして、片手に猫、片手に刃物を持った。
両堂の僧侶たちは、南泉のすごい剣幕にのまれて、誰も一言もいわない。
そこで、南泉は斬ってしまった。
それで、この騒ぎの最中にいなかった高弟の趙州が帰ってきた。
南泉が、今日の顛末を語った。
すると趙州は、足にはいていたクツを脱いで頭におき、それで方丈を出ていってしまった。
このクツについて、日本ではよく草鞋といっているが、草鞋ではなくて、草でつくったクツである。
その趙州の行動について南泉は「おまえがもしいてくれたら、あの猫は斬らずに助けられたのになぁ、惜しいことをした」といった。
これはどういった意味なのだろうか。
もちろん、南泉斬猫は禅的慣用手段である。
これはあくまでもたとえであり、実際に切ったわけではない。
比喩として読めば、肝心な一言がいえないなら言い争ってもしかたがない、思考や理屈の束縛を断ち切れという意味だ。
趙州は足で履くべきクツを脱いで頭にのせて出ていった。
これは常識や論理をひっくり返すことを象徴し、理屈で理解できる世界ではないということを言葉を使わずに示し、議論の場から出ていっている。
だから、常識を超えたことを示せば、クツを頭に乗せなくても、なんでもよかったのだ。
私の体験談
私は仕事上、子どもの進路について悩む親たちに向き合っていた。
「どこの大学に行かせるべきか」と、理屈や社会的常識に囚われ、議論が堂々巡りになっていた。
「あーでもない、こーでもない」と話し続ける親は、まるでそれ自体を楽しみ酔っているようにも見えた。
私は突然、「大学に行かずに働くのも十分価値がありますよ」と言った。
これは、身を斬るような、無慈悲な言葉に聞こえるようで、親は顔をしかめた。
言葉だけでは届かないと思い、実際に自分の働いた経験や、収入や学びの現実的な例を並べた。
また、子どもたちが大学進学するだけの学力がないことも示した。
実際の体験や失敗例を交えながら話すその行為は、親たちの固定観念を象徴的に揺さぶる衝撃となった
一瞬、部屋は静まり返った。
頭を抱え、沈黙の中で自分たちの常識を疑い始める。
しかし、やはり親たちは、私の話を却下し、大学に進学させることを肯定する話をし続けた。
私は諦めて、その場を離れた。
まとめ
南泉は、猫を斬るという比喩表現を使って、結論が出ないなら言い争ってもしかたがない、思考や理屈の束縛を断ち切れということを示した。
趙州は、足で履くべきクツを脱いで頭にのせて出ていくことで、常識や論理をひっくり返すことを示した。
同じように私も、大学に進学させたほうが就職に有利だという常識に、自分の体験を交えてメスを入れた。
このように、行動や、体験、実際のデータで示すことで、あーでもないこーでもないという終わりのない議論を終わらせることができる。
よくある質問
問一. 本当に猫は斬られちゃったのですか?
記録上は話として伝わるだけで、実際に斬ったかどうかは不明です。
説はいろいろとありますが、ここでは象徴的な行為として読んでいます(実際には斬っていない説を採用)。
問二. 禅における方便とはなんですか?
悟りに導くための手段で、言葉や行動が文字通りの意味ではなく象徴的に使われるものです。
猫を斬るような衝撃的な象徴を使うことで、思考を中断させ、直感的理解をさせることを狙います。
問三. この公案の目的はなんだったのですか?
論理や常識に縛られた心を揺さぶり、直感的に悟りを理解させることです。
問四. なんで他の弟子たちは答えられなかったのですか?
言葉や理屈に依存していたため、非論理的で直感的な答えを示す状況に対応できなかったからです。
問五. 常識を超えたことは草鞋を頭に乗せる他にどんなことがあげられそうですか。
手を打って叫ぶ、坐禅中に突然立ち上がる、普段と逆の行動をするなど、論理や慣習を覆す行動であれば象徴的に示せます。
より簡単に絵本にしました
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参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2025年1月5日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
