私たちは日常の中で、物事について是非を論じ、結論を出した気になることが少なくない。
仏教の文脈でも、「人は本来悟っているのだから修行は不要だ」「戒律は形式にすぎない」といった言説がしばしば語らる。
しかし、修行が要るか要らないか、戒律が必要か不要かを議論し続けても、その判断自体が現実を変えるわけではない。
今回は、従容録第八則「百丈野狐」を手がかりに、判断を超えて現実に向き合い、行として生きるとはどういうことかを考えていく。
因縁因果の道理を確信し、日常生活に落とし込む
百丈禅師が法堂に上がって説法していると、いつも一人の老人がいて法を聞き、大衆と一緒に帰っていった。
ある日、その老人だけが帰らずに残った。
百丈:そこに立っているのは誰だ。老人:私は、過去迦葉仏の時代、この山に住していた者です。
その頃、ある修行者が私にこう尋ねました。
『大いに修行した人は、因果の法則に落ちることがあるのか、それともないのか』と。私はそれに対して、
『因果に落ちない』
と答えてしまいました。そのために五百生のあいだ、野狐の身に堕ちてしまったのです。
どうか和尚さま、私の代わりに一言、正しい言葉をお示しください。百丈:因果をくらまさない。
その言葉を聞いた瞬間、老人は大悟した。
従容録第八則百丈野狐
本則の主人公である百丈は百丈懐海のことだ。
百丈は福建省の人で、少年の頃出家して馬祖道一の門下に入り、のちに江西省の大雄山で住持することになった。
百丈の功績としては、禅苑清規(ぜんえんしんぎ)を制定したことだ。
百丈以前は、禅宗専門の寺院がなかったのだが、百丈になってはじめて禅宗専門の寺院を建て、参禅者の規律というべき禅苑清規(ぜんえんしんぎ)を制定した。
この禅苑清規(ぜんえんしんぎ)は、日本において武家作法に影響を与えた。
それでは本則に入ろう。
第一則から、第七則までは、無説無示により、人は生まれながらにして本来清浄で、すでに悟りの境地にあること(=本来本法天然自性身=本證)を示してきた。
しかし、われわれ人間は、煩悩妄想に惑わされて、本来持っている本證をくらましている。
だから、因縁因果の道理(原因と条件が揃って結果が生じるという法則)を確信し、日常生活に落とし込まなければならない。
そこで、第八則の今回は、因果を悟らずして語り狐になってしまった修行者の話だ。
百丈が法堂(はっとう)に上殿して、説法をするとき、いつも一人の白髪の老人が、大衆(だいしゅ)の中にまじって説法を聞いていた。
ところがある日、説法が終わって大衆が散ってしまったのに、この老人はまだ残っていた。
百丈は「そこに立っているのは誰だ」とたずねた。
普通、この老人は寺に説法を聞きに来てくれるお客様なわけだから、それにしてはぶっきらぼうな言い方だ。
この時点で百丈は、この老人が妖怪だということをわかっていたのだろう。
それに老人は「私は、過去迦葉仏の時代、この山に住していた者です。」と白状した。
過去迦葉仏(かこかしょうぶつ)の時代とは、釈迦より前に出現した仏のことで、古い過去のことだ。
その時から老人は狐としてこの山に住んでいたのだ。
老人は続けて「その頃、ある修行者が私にこう尋ねました。
『大いに修行した人は、因果の法則に落ちることがあるのか、それともないのか』と。
私はそれに対して、『因果に落ちない』と答えてしまいました。
そのために五百生のあいだ、野狐の身に堕ちてしまったのです。
どうか和尚さま、私の代わりに一言、正しい言葉をお示しください。」と言った。
「因果に落ちる」とは、因果に固定された私を作ってしまうこと、つまり、私はこういう過去があるから、こうなるしかないと考えてしまうことをいう。
「因果に落ちない」とは、ここでは、因果(行為には結果があること)を認めはするが、因果から自由になることをいっている。
この老人もそうで、修行を徹底すれば因果から自由になれると言って、五百年も畜生道に堕ちてしまったのだ。
そこで、百丈は「因果をくらまさない(不昧因果)。」と言った。
人は、悟ろうが悟るまいが、因果必然の真理によってこの地上に存在しているのだから、何一つとして仏法に反していないこと(=本来本法天然自性身=本證)をいっている。
だから、因果に落ちるとか落ちないではなく、因果を認めその中で生きつつ、真正面から向き合う(不昧因果)ことが肝心なのだ。
その言葉を聞いた瞬間、老人は大悟した。
私の体験談
問題の老人は、「大いに修行した人は因果に落ちるか」と問われ、「因果に落ちない」と答えた。
その結果、五百年ものあいだ狐の身に堕ちたとされる。
しかし、狐になってしまったのは、因果を語ったことでも、悟っていなかったことでもないく、因果や悟りについて判断できる立場に自分を置いたことにあった。
この構造は、現代にもそのまま見られる。
たとえば、「人は本来成仏だから、修行も悟りも戒も必要ない」と語る人がいる。
一見すると、仏教的で、深い理解に基づいているようにも聞こえる。
しかし、よく見ると、ここでも同じ構図が成り立っている。
その瞬間、因果は向き合うものではなく、語る対象になり、戒は自分には関係のない規範へと変わる。
これはまさに、百丈野狐の老人が修行を徹底すれば因果に落ちないと言ったときに起きたことと同型だ。
百丈が示した答えは、因果に落ちないではなく、因果をくらまさないだった。
ここには、立場も結論もない。
ただ、ごまかさず、逃げず、行為として引き受けよという態度だけがある。
因果から自由かどうかを決める必要はない。
悟ったかどうかを判定する必要もない。
ただ、今この行為、この言葉、この怠慢に、因果が働いていることから目を逸らさないことが大切なのだ。
まとめ
百丈野狐の公案が示しているのは、因果から自由になる方法でも、正しい見解を選び取るための教義でもない。
問題とされているのは、悟りや因果について結論を語ってしまう人間の姿勢そのものだ。
因果に落ちない(不落因果)と因果をくらまさない(不昧因果)との差は、言葉の選択ではなく、現実に向き合う態度の差にある。
因果を超えたと語ることも、因果に従うと語ることも、語った瞬間にそれは観念となる。
この公案は、判断を手放し、因果の只中で黙って引き受けて生きることこそが、行としての仏道であることを示している。
よくある質問
Q1. 禅では妖怪などの存在は採用しないはずなのに、なぜ狐のような妖怪が出てくるのですか。
確かに、禅は超自然的存在の実在を主張する立場ではありません。
狐は実在を主張する存在ではなく、「誤った見解に執着した結果の状態」を示す象徴です。この公案では比喩として用いられています。
Q2. なぜ禅では議論を嫌うのですか?
わかった気になって、現実への向き合いを止めてしまうからです。
禅は正解を得ることより、行いとして引き受け続ける姿勢を重視します。
Q3. 悟っていない人は仏教を語る資格がないのでしょうか?
語ること自体は否定されませんが、断定的に判断する態度が問題とされます。
未悟であることを自覚した上で語る姿勢は、むしろ健全とされます。
Q4. 百丈はなぜ老人を救うことができたのですか?
因果について正解を示したからではなく、判断を超えた位置から「不昧因果」と応答したからです。
それにより、老人は解放されました。
Q5. 老人は、なんと答えればよかったのでしょうか。
狐になってしまったのは、答えの内容ではなく、結論づけた態度にありました。
「わからない」と答えたり、語らないことも一つの応答です。
沈黙や問い返しは、禅において無責任ではなく、誠実な態度とされます。
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参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2025年12月28日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
