最近、親や教師など人を指導しなければならない立場の責任が益々重くなっている。
そのためか、親になる人は減り、教師になる人も減っている。
私自身も教える仕事をしているが、こちらがくたびれるほどに手取り足取り指導したとしても、結果につながらず、文句で返ってくることが多い。
私は、昨今の教育はサービス化したことにより起きた弊害だと思われるのだが、いったい、本来の指導とはどのようなものなのだろうか。
今回は、従容録第六則馬祖白黒を通して、本来の指導とはいかなるものかを探る。
Summary:True Guidance Is Not About Teaching Others, but About the Teacher Continually Growing Oneself.
A monk asked Mazu Daoyi to show him the core of Zen, the teaching beyond the sutras.
Mazu told him to ask the other monks.
But the other monks said they did not know.
This was not giving up on guidance.
It was advice: do not look for answers from others, but realize it yourself.
In this way, true guidance is not about teaching step by step.
It is about showing your own example.
本来の指導とはどのようなものか?
ある僧:四句を離れ、百の否定も断ち切って、どうか西来意を示してください。
馬祖大師:今日は疲れている。お前のために説くことはできない。智蔵に聞いてこい。
僧は智蔵に問うた。
智蔵:なぜ和尚(馬祖)に聞かぬのだ?ある僧:和尚が、あなたに聞けと申されました。
智蔵:今日は頭が痛い。お前のために説くことはできない。海兄に聞いてこい。
ある僧は海兄に問うた。
海兄:そのことなら私もわからないんだよ。ある僧はこの一部始終を馬祖大師に報告した。
馬祖:蔵は頭が白く、海は黒い。
従容録第六則馬祖白黒
今回の登場人物は馬祖道一(ばそどういつ)、智蔵、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)、ある僧の四人。
馬祖道一は漢州(四川省)の馬氏の生まれで、南嶽懐譲(なんがくえじょう)のもとで悟りを開き、この時代では、石頭希遷(せきとうきせん)と並んで二代巨頭であり、どちらかに入門すれば道を悟ることができるとさえいわれるくらいだったという。
馬祖は棒をふるい、喝をあびせ、鼻をねじ上げ、耳を引っ掴み、蹴り倒すといった風で、禅といえば暴力という風潮はこの馬祖がつくったようだ。
智蔵は、江西の出身で、子どもの頃、寺院で『涅槃経』の講義を聴いて、13歳の頃に父母を説得して出家し、馬祖道一の門に入った。
百丈懐海は智蔵の兄弟子で、福州(福建省)出身で、馬祖のもとで修行し、百丈山に住んで『禅苑清規』という道場の規則をつくった。
この智蔵と懐海の二人については、馬祖が『教は藏に入り、禅は海に帰す』とほめるくらい、有力であったが、馬祖、智蔵、懐海の三人で一人の僧を指導するくらいだから、ある僧は無名であるが大切にされていたようだ。
さて、本題に入ろう。
ある僧が馬祖道一に「四句を離れ、百の否定も断ち切って、西来意を示してください。」と聞いた。
これは鎖口問(さくもん)といって、相手の口を封じておいて、しかも質問に応じてくれという無茶振りだ。
四句百非とは、議論の範疇のことだ。
四句百非の四句とは、有る(有句)・無い(無句)・有るでもなく無いでもない(非有非無句)・有りでもあり無いでもある(亦有亦無句)のことだ。
百非とは、この四句の組み合わせのことで、まず4✕4の16通り、これをさらに過去・現在・未来にかけて46通り、さらに既起と未起と二通りでかけて96通り、最後に根本の四句を加えて百非となる。
四句を離れ百非を絶すというのは、一切の議論や説明を拒絶するという意味だ。
西来意というのは、達磨がインドから中国へやって来た意図という意味で、つまりは経典以外の教えという意味だ。
そんな無茶振りをするある僧に対して、馬祖は「今日はなんだか疲れているのでおまえに西来意(経典以外の教え)を示すことはできない」と言ってかわした。
これは、ある僧が四句を離れ百非を絶するところまで来ているということは、西来意について、いい線いっているわけだから、なにも俺(馬祖)に求めなくても、自分で言句を隔絶してみればそこに西来意があると気づいたらどうかな?という意味だ。
しかし、馬祖は全くアドバイスを放棄したわけではなくて「お前のために説くことはできない」とアドバイスしている。
これは、アドバイスしていないように見えるが、無舌人の解語といって、言葉なくして教えることだ。
しかしこれだけでなく「智蔵に聞いてこい」とアドバイスした。
これは文字通り智蔵へ聞いてこいという意味ではなく、「おまえ自身に聞け」という意味だ。
それで、ある僧はのこのこと智蔵のところにでかけていったのだが、智蔵は「どうして和尚に聞かないのか?」ととぼけた。
これは、智蔵に、馬祖のやり方が染み付いていることを示している。
ある僧はどこまでも正直に「和尚が、あなたに聞けと申されました。」と答えた。
また智蔵は馬祖そっくりに「今日は頭が痛いからお前のために説くことはできない。」といって、懐海のもとへ行くようにいった。
馬祖も智蔵も「他へ行け」と言ったのは偶然ではなく、そういう指導法なのだが、残念ながらある僧は気づかず、ある僧は懐海に問うた。
懐海は「そのことなら、私もわからないんだよ。」と言った。
ある僧はがっくりきたわけだが、このわからないというのは、第二則達磨廓然のときの知らないと同じで、他人に求めるのではなく自分で体得しなさいよ、という意味だ。
ある僧はこの一部始終を馬祖大師に報告した。
馬祖は「智蔵は頭が白く、懐海は黒い。」と言った。
これは、智蔵の頭髪は白いし、懐海の頭髪は黒いことをおまえはよく見てきたか、という意味だ。
この、白黒はいろいろな説に分かれることになったが、実は、太陽は東から昇り月は西に沈む、山は高くて海は深いのと同じで、単に白髪と黒髪の様子を言っただけだ。
これをいかにあたりまえにありのままに受け取るかが禅では重要となるのだが、達磨がどうの、西来意がどうの、とあれこれ考えてしまう。
私の体験談
私は教える仕事をしているのだが、どうしても、言葉でなんでもかんでも手取り足取り説明しなければならない、と思ってしまう。
これは、迷わせない・失敗させない・逸脱させない・結果に導くという管理的な教育観だ。
そもそも、高校以下の学校は、本質的には個人の探究を深める場ではなく、社会を維持するための統制装置として設計されている。
しかし、本来、指導者とは「うまく教える人」ではなく、自ら問い続け、更新され続けている人であり、教える行為は副次的である。
それだから、指導が主になり、指導者自身の成長が退いた瞬間、教える行為は管理や再生産へと変質する。
それなのに、近年、学校には自由、個別配慮、至れり尽くせりが強く求められるようになった。
これは教育理念の進歩というより、学校のサービス業化によるものだ。
指導者の教え方が上手になることは結構なのであるが、自立せずに文句ばかり言い、成長しないこども・おとなが増えてしまう。
しかし、今回の古則では、あえて説明しない・迷わせる・自分で立たせる・結果に介入しないという方法をとっている。
こうすることで、参学者は自分で参究し、深めていくことができるし、指導者も参学者の世話で手一杯にならず、自分の参究を深めていくことができるのだ。
まとめ
今回の古則では、あえて説明しない・迷わせる・自分で立たせる・結果に介入しないという方法をとっていた。
このように、本来の指導とは、指導者が自ら成長し続け、その副産物として成長していく姿勢を見せ、「他人に求めるのではなく自分で体得しなさいよ」と伝えていくことなのである。
こうすることで、参学者は自分で参究し、深めていくことができるし、指導者も参学者の世話で手一杯にならず、自分の参究を深めていくことができる。
よくある質問
Q1.子どもを教えるより自分の成長を優先する指導者は利己的では?
A.利己的ではありません。
なぜなら、自分の成長を止めた指導者は、必ず管理者になるからです。
自ら更新され続けることができる人のみが、他者を固定化せずに関わることができます。
Q2. 子どもにすべて自己責任を負わせるのは酷では?
A.人生は本人が生きていくことしかできず、誰かが代わりに生きてあげることはできません。
支援はできても、人生そのものは本人しか引き受けられません。
責任を免除し続け、いよいよ責任を取れなくなったとき、おまえが責任を取れと手放すほうが、よっぽど酷いのではないでしょうか。
Q3.結局、強い人だけが生き残る思想では?
いいえ。
これは「強さ」を競う思想ではなく、
自分の人生を自分で引き受ける姿勢を回復する思想です。
弱さを隠さず引き受けることも、ここでは強さです。
Q4. 他者に期待しないなら、教育はどう考えればいい?
学校は最低限の社会統制装置として捉えます。
学校で最低限の読み書きを習ったら、図書館へ行き、自ら問いを立て探求していきます。
図書館は、主体がいないと何も起きない場であり、無舌です。
だから、そもそも教育という考え自体が、幻想なのです。
Q5. 親や先生のできる本当の教育とはなんですか?
子どものためにあれこれしてあげることではなく、自分自身の人生に向き合い、自分自身がどう生きているかを見せることです。
🔽より簡単に絵本にしました
🔗https://note.com/s2rz/n/nf253a48b083e
参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2025年12月15日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
