子どもに口で言葉を言って聞かせても、なかなか言うことを聞いてくれない。
同じ言葉を何度も何度も言うのが嫌になった、という経験はないだろうか。
これは、家庭にあっては親に、学校にあっては教師においてよくある悩みだろう。
しかし実際には、「背中で語る」というように、言葉以外の教えというものがある。
今回は、禅宗の古典、従容録第一則を優しく解説し、言葉以外の教えを紹介する。
言葉以外の教えとはなにか?
ある日、世尊が法座に登られた。
すると、文殊菩薩が前に進み、如法に槌(つい)を打って言った。
文殊:よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。その言葉を聞くと、世尊はすぐに座から降りられた。
従容録第一則世尊陞座
今回の登場人物は、釈迦と文殊菩薩。
釈迦は苦行の末、真理を悟り覚者となった。
文殊菩薩は、華厳三聖の一で、行動を司る普賢菩薩とともに釈迦に仕える、智慧を司る菩薩だ。
この世尊というのは釈迦の敬称のことだ。
それでは本題に入ろう。
ある日、釈迦が法座にのぼられたので、文殊菩薩が槌(つい)を打った。
今では法座は立派な椅子なのだが、昔は曲がった木で作った簡素なものだった。
禅宗の寺院ではいまでも槌砧(ついちん)という木でできた八角形の鳴らしものでいろいろな合図をしている。
昔の禅の寺では、住職がお話をする前に槌を打って、「法の説かれる場に集う立派な修行者たちよ、今こそ真理の根本を観じなさい。」といい、お話が終わったらまた槌を打って「よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。」といっていたそうだ。
この、法王とは、悟りを開いた者、という意味だ。
文殊菩薩は槌を打つ係を担い、正しく作法をおこなったのだが、「法の説かれる場に集う立派な修行者たちよ、今こそ真理の根本を観じなさい。」といわずに、釈迦が高座に座ったのに、「よくよく観よ、これが法王の法である。法王の法とはこのようなものである。」と言って終わらせてしまった。
これはさては文殊菩薩がやらかしたのだろうか?
いや、そうではなく、文殊は釈迦の言葉以外の説法を聴くことができたから、終わらせたのだ。
これは、柳は緑、花は紅、日は東から昇り、西へ沈むこと、そのままが真理のように、釈迦の存在そのままが真理であることを意味している。
また、釈迦が座ったり立ち上がったりという行動は、地球の傾きが太陽を高く昇らせ、柔らかな光が大地を包み、その光に目覚めた梅の木が、静かに花をほころばせて春の景色を作るという真理のはたらきを表現している。
他の修行者達は、説法は耳で聞くものだと思いこんでいるから、無言の説法を受け取ることができなかったが、文殊菩薩は受け取ることができた。
しかし、釈迦が法座に上がれば、なにか威厳のようなものを感じ取ってしーんとしたはずだ。
このように、存在としての威厳や、きびきびとした行動から、人は何かを感じ取るものである。
ところが、それだけでは足りず、日常から伝える側も受け取る側も集中力を養う必要がある。
ある人が、ニュートンに「木から林檎が落ちるのを見て、引力の法則を発見したのはすごいですね」というと、ニュートンは「それはそうかもれないが、注意力が大切だよ」と答えたという。
このように、真理は身の周りにあたりまえにあるものであり、よく観ることが大切なのだ。
仏教といえば、多くの人は、釈迦によって発明された宗教のように考えるが、禅でいう仏法とは、この大宇宙に遍満している真理への道を指している。
たまたま釈迦によってそれが顕示されたに過ぎないから、釈迦の前にも悟った人はいることになるし、仏法の道は、今も昔もどこにでも存在していて、あなたも悟ることができる。
いまでは、日本の仏教は、十三宗に分かれているが、禅宗を除いたほかは全部経典を拠り所としているのに対し、禅宗は、経典がない。
禅宗の考えでは、釈迦の四十九年間の説法も、五千七百の経典も、結局は真理の月を指す指にすぎないから、指にこだわっていたのでは、月がみえないように、真理の道は文字以外にあるということになる。
だからといって、一切の文字も使わないし、経典を度外視するというわけではない。
達磨以来、特に坐禅修行を中心に行うようになったから、自然と世間から禅宗とよばれるようになったのだが、達磨のあと、祖師(達磨ら先師)の語録などを古則・公案として工夫するようになって、坐禅(文字以外)と看話(かんな、公案に取り組むこと、文字)の両方に取り組むようになったし、禅師のなかには経典の参究もする者もいる。
つまりは、経典や古則を使って文字に頼って真理とは何かを知り、坐禅の修業によって真理を体得するということの両方が大切だということだ。
私の体験談
私は子どもに教える仕事をしていて、とびきり優秀な子を除いては、手を変え品を変え指導しなければならない。
指導といっても、怖い顔をしたり脅かして指導してはいけないから、私は「自分と向き合う」という態度で示している。
どういうことかというと、私は勉強を教えるという職分に集中し、自分の話や自分の勝手な考えをできるだけ排除するようつとめて、必要最低限にし、かつ相手の子どもに合わせて教えている。
いまのところ、すべての子どもが本当に静かに私の話を聞いてくれている。
これは、今の子どもが従順でおとなしいこともあると思われるが、私の話以外の声、態度、行動により、何かを感じ取ってくれているからだと思っている。
さて、人は社会的価値、つまり社会的地位に依存して生きている。
「俺は親である」「俺は先生である」
こうした社会的地位に依存してと思い込んでしまう。
しかし、それに頼りすぎてはいないだろうか。
「俺は親として先生として子どもを教育すべきである」、「どうして俺は親なのに、先生なのに尊敬されないのか、言うことを聞いてくれないのか」という疑問は、親だ先生だという、社会的地位への依存を示唆している。
まとめ
仏法の道は、今も昔もどこにでも存在していて、あなたも悟ることができる。
仏法の道は、釈迦の言葉として語られる部分もあるし、言葉以外の部分もある。
言葉以外の部分に特化したのが禅宗だ。
日常生活でも、話をすることでやっと相手に伝わると考えるが、態度、声、行動など、話以外にも相手に伝える方法はある。
このように、話の内容ばかりに注目しないで、話以外の態度や声や行動などによく注意をすることが大切だ。
よくある質問
問一. 菩薩とはなんですか?
A.菩薩とは仏陀(悟りを開いた人)になる少し前の段階の人です。
今回登場した文殊菩薩のように知恵の象徴としてあらわれているように、象徴として拝まれることが多い存在ですが、本来はそうではなく、生きた人間の尊称であり、誰でもがなれる、目指す存在です。
問二. 華厳とはなんですか?
A. インドで釈迦が解いた教えは、中国を経て日本に伝わりましたが、年月を重ねているうちに色々解釈が出てきてさまざまなバリエーションとなりました。
華厳では、釈迦が仏として、現実の人間として現れたのに対して、すべての現象や山川草木、人々に仏として、仏のはたらきとして現れると考えています。
だから、華厳経では、仏や菩薩は象徴として登場することが多いです。
問三. いろいろな宗派があるけど結局どの宗派が正しいのですか?
A. 宗派が分かれたのは江戸時代で、それには政治的意図がありました。
その前までは結構あいまいで、禅宗の僧侶が、律宗について勉強したり華厳宗について勉強したり、法華宗について勉強したり、真言宗や天台宗について勉強していました。
だから、◯◯宗だけが正しいというのは、ありえない話です。
私がおすすめするのは、いろいろやってみて、自分がいいなぁと思った宗派の勉強をすることです。
私はいろいろやってみて、お経を読むのも好きですし、祈祷も好きなので、好きなことやってます。
問四. 坐禅はお寺に行って指導してもらわないとだめですか?
A. そんなことないです。
今はYOUTUBEでもいろいろ見れますから、それらを拝聴するのでも間に合います。
しかし、やっぱり雰囲気を味合うには寺院のほうが格好がつきますよね。
どれを見たらいいかわからないという人へ、私は山川宗玄老師のビデオを推薦します。
問五. どうしたら言葉以外に伝えることができますか?
A.黙ることです。
私達は普段、余計なことをしゃべりすぎています。
だから、普段から発する言葉に気をつけて生活すれば、発する言葉も磨かれますし、無駄なおしゃべりをしない分余裕ができて、早く家事を片付けるようになるし、行動にも磨きがかかってきます。
問六. 私は兼業主婦で修行する時間はないのですが?
正直に申し上げますと、修行道場でも坐禅以外に特別なことはやりません。
日頃の家事、仕事がそのまま修行の代わりにできます。
大切なのは、段取りを考え、黙って集中して取り組むことです。
🔽より簡単に絵本にしました
🔗https://note.com/s2rz/n/n1caf0b63e200
参考文献
坂田忠良(2023年2月5日).「従容録:その1: 1~25則」.禅と悟り.https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/shouyou1.1.html(アクセス日:2025年11月07日)
加藤咄堂(昭和15年~17年)『修養大講座 第9巻』平凡社。
